松本雅弘牧師
マタイによる福音書23章1―12節
2020年6月14日
Ⅰ.「マタイ福音書23章から25章」の位置づけ
「あなたたちはメシアのことをどう思うか」。この問いかけを巡っての問答ののち、今日からお読みします、マタイ福音書23章から3章にわたり、主イエスの教えが延々と語られていきます。そして26章からは主イエスが十字架に掛けられ、殺される受難の記事が続くのです。ですからこの後続く主イエスの教えは、死の直前に語られた、いわば遺言のような教えです。そしてその矛先が、律法学者、ファリサイ派の人々に向けられています。
Ⅱ.律法学者、ファリサイ派とは
当時、安息日になるとユダヤの人々は会堂で礼拝し御言葉を教えられていました。そこでの教師が律法学者でした。そして今日も登場する「ファリサイ派」です。ファリサイ派の「ファリサイ」とは、律法学者の中のあるグループの名称で、「区別された者/分離された人々」という意味のあだ名でした。大国の支配が続く中、信仰を守ること自体に失望したユダヤ人や世俗化していく人たちの中、律法に忠実でありたいと願い実践していた人々でした。ファリサイ派と言うと、福音書に親しむ者たちからすると、主イエスの敵対者、「悪者」のように思われがちですが、実際のところは、ユダヤ社会における模範生だったわけです。
Ⅲ.見せるための信仰
そのような意味で、真面目なファリサイ派の人々もいたことでしょうが、しかし今日、ここでも主イエスは、そうした律法学者、ファリサイ派の人々を厳しく批判しています。「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らの言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである」。「彼らの言うこと」は守り、行いは見倣ってはならないとおっしゃるのです。見倣ってはいけない具体例が2つ挙げられています。1つ目は、「聖句の入った小箱を大きくする」ということ、もう1つは「衣服の房を長くする」という行為でした。
この2つ、いずれもが彼らの信仰を支える手段であったのですが、いつのまにか、自分たちの立派さを示すパフォーマンスの手段になってしまったのです。
主イエスは、日ごろから、彼らの様子を観察し、その行動を生み出す彼らの内面を見抜いておられたのでしょう。周囲から「先生、先生」と持ち上げられることで、いつの間にか傲慢になっていく姿がありました。実際、私たち牧師も「先生」と呼ばれます。神学校を卒業するとすぐ「先生」と呼ばれ始める。実態が伴っていないのに、「先生、先生」と呼ばれ続けますと、いつの間にか勘違いが起こり高慢になることがあります。
聖書における「高慢」の反対は「謙遜」ですが、謙遜とは背伸びをせずに等身大の自分であることを認めて生きる心の姿勢を指す言葉です。ところが、「先生」と呼ばれ始める。でも自分を顧みると内実が伴っていないことに気づく。そうした自分を隠し一生懸命に背伸びをし、できるだけ自分を大きく見せ、自分は高い所に立っているかのようにアッピールしようとする誘惑が起こるのです。そうした姿勢を戒めるように、「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」とおっしゃったのでしょう。
Ⅳ.主イエスを鏡として生きる
では、律法学者、ファリサイ派の人々が陥りやすい過ちとは何でしょう。それは「そうすることは、すべて人に見せるため」でした。何故、見せるのかと言えば、それが好きだからだというのです。尊敬され、称賛され、褒められることが大好きなので、だから自分を大きく見せようとしている。さて、ここまで来て思います。これは、律法学者やファリサイ派の人々だけの課題ではなく、私たちにも当てはまるのではないか、と。
3百年ほど前のイタリアの話です。ある教会に大変優れたオルガニストがいました。彼の奏楽、伴奏の美しさ、素晴らしさに教会員は心打たれ、時には礼拝中にも拍手が起こるほどだったそうです。当然ですが、彼のことが方々で話題になっていきました。ある日、街の有力者を招き、オルガンコンサートが開かれました。オルガニストの彼は会衆席を眺め、どのような人たちが集まっているかを確認した上で、最高の演奏をと意気込んで弾き始めました。
ところが、いつものように弾けないのです。思うように音が出ない。結果、コンサートは散々でした。集まった人達も期待が大きかっただけに失望し、ある人は呆れ顔で帰っていきました。演奏会が散々。この者の顔に泥を塗り、築き上げた名声を一瞬の内に失わせた張本人のふいご手のアンセルモに文句を言いに、オルガンの裏に回って大声で呼び出すと、出て来たのは見知らぬふいご手でした。「アンセルモはどうした!」と訊くと、「今朝、亡くなった」との答えが返ってきたのです。それを聞いた瞬間、オルガニストの背筋にビリビリッと震えが走ったそうです。
これまで自分の音楽こそ、神への最高の賛美の献げ物だと思っていた。自分一人でやって来たと思っていた。でも、この時、気づいたのです。自分はいつも人を喜ばせ、人から見られ、称賛された。口では「神さまを賛美します。神さまのためです」と言っていたけれども、いつの間にか人の注目を勝ち取るために弾いていた。どれだけの人たちを感動させたか、どれだけの人数の人を集められたか、自分を見てくれているかの方が一番大事。結局は自分の栄光のためにやっているに過ぎないことを知らされ、背筋に戦慄が走り、深い悔い改めに導かれたそうです。
私たちの多くはオルガニストではありませんが心当たりがあるのではないでしょうか。私がやっていることを人が認めてくれるかどうかが、自分にとって切実な問題なのです。でも往々にして周囲からは決して期待通りのレスポンス、フィードバックは返って来ません。その結果、私たちは苛立ち、もっとエスカレートしたり、場合によっては、認めてくれない周囲を責めるのです。
主イエスがヨルダン川で洗礼をお受けになった時、天から、「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」という声がありました。この御声が宣言された時、周囲を驚かせ、感動させるような御業は何ひとつなさっていません。勿論、十字架も復活もまだ起こっていなかった。仮に、父なる神さまが、福音書に出て来るような主イエスの宣教の働き、悪霊を追い出し、病人を癒し、ご一緒に読んできたような、マタイ福音書に出てくる数々の深い教えを語られ、5千人の人々の胃袋を僅かなパンと魚で完璧に満たすような奇跡、死後4日も経過し臭い始めたラザロを蘇らせる、とんでもないような御業をご覧になった結果、「ああ、やっぱり、これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者だ!」とおっしゃるのだったら分かるのです。
しかし最後にぶどう園にやって来て1時間しか働かなかった人を最初に呼び出し賃金を渡したいと願う神さまは、どうしても納得いかないのです。何故なら理屈に合わないからです。でもイエスさまは、それが神の恵み、神の愛だ、とおっしゃる。私たちの理屈では、救われ、神の子にされるには、それなりの理由が私の側にあるはずだと、考えているからからです。
洗礼をお受けになったあと、主イエスは荒野に導かれ、40日40夜、父なる神さまと深い交わりを経験されました。そして悪魔の誘惑をお受けになるのです。その誘惑は普遍的な誘惑だと言われます。所有、会社や仲間からの評価、そして影響力の3つです。この3つをどれだけ手にしたかで人間の価値が決まる。以前お話した「我持つ。ゆえに我あり」という世界観です。でも聖書は、「それは嘘です!」とはっきりと言うのです。「神、我を愛する。ゆえに我あり」だ、と。
神さまから離れ、神さまを神さまとして礼拝せず、崇めることをしないならば、本来、造り主である神との交わりを通していただく、そのお方からの評価、そのお方からの称賛、そしてすでに与えられている、必要なすべての物が、1つも視界に入らず、その結果、今日の律法学者やファリサイ派の人々のように、自分を大きく見せずには生きていけない、周囲からの褒め言葉ばかりを見つけては安心するような生き方。そうしたものを少しでも見ること、聞くことに自分の存在をかけてしまうような生き方にならざるを得ない。でも、そうした生き方は裏を返せば、神さま抜きの自己実現、自分を神とする生き方なのです。
主イエスはおっしゃる。「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい」。これこそが、私たちが従うべき、主イエスご自身の生き方、私たちの鏡とすべきお姿なのです。お祈りいたします。