松本雅弘牧師
マタイによる福音書23章13―24節
2020年6月21日
Ⅰ.山上の説教との関係性
先週からマタイ福音書23章から25章の3章にわたって記されている主イエスの教えに耳を傾けています。それは十字架でのご受難を目前にした主イエスの教えで、言わば遺言のような教えだったと思います。そこで繰り返される言葉が、「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ」という言葉でした。実はこの表現が7回繰り返されています。山上の説教の語り出しでは、8回の「幸いなるかな」、祝福が語られているのに対して、この23章では「7つの不幸」を語っておられます。
こうしたことからも23章から始まる主イエスの教えを読む人々が、山上の説教と重ね合わせるようにして読んできた歴史があったようです。
実際にこの教えが語られた時期は、過ぎ越しの祭りの時期でした。春の季節です。それこそガリラヤ湖畔に集った大勢の人々相手に語られた山上の説教も、ちょうどこの季節だと言われています。私たちは、山上の説教を聞く時、喜びに満たされる。でも、この23章から始まる一連の不幸の言葉を前に、自らの罪の現実を見せつけられ、暗い思いにさせられるのです。では一体何が不幸なのか。なぜ不幸なのかを考えてみたいと思うのです。
Ⅱ.なぜ不幸なのか
高座教会の長老、また幼稚園の園長を長年務められた田中清隆先生は、「ルツ会は教会の門だ」とよくおっしゃいました。今は「ノア会」と呼び名が変わりましたが、教会の女性会が主催する、幼稚園の保護者、求道者のための伝道集会です。
聖書は、ルツ会、もしくはノア会を通して導かれた教会という信仰共同体自体は、まさに天の国の入り口のような役割を果たすことを教えています。ところがその教会で仮に牧師や長老、教会員たちが、聖書の言葉を語るだけで、御言葉に生きていない、見ばえばかりに気を遣っているだけだとするならば、「人々の前で天の国を閉ざす」ことになる、と主イエスはおっしゃるのです。
ここに出てくる「天の国」とは、別の福音書では「神の国」となっています。主イエスが言われる「天の国、神の国」とは死んでから行く場所ではなく、正確には「神さまのご支配」のことです。主イエスが、「天の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と語られたメッセージとは、「神のご支配が今、ここに到来した。方向転換して、神さまのご支配を受け入れるように」というメッセージでした。
確かに私たちは、「天の国/神さまのご支配」を肉眼で見ることはできません。でも信仰の目をもって見ていく時に、この世界に慈しみ深い神がおられ、そのお方が今日も生きて働き、全てを支配されていることを確認しながら生きることができる。ところが、「律法学者たち、ファリサイ派の人々は、人々の前で天の国を閉ざし、自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない。人々が信仰を持つ道を閉ざす、神さまのご支配を認めさせない、だから不幸であり、災いなのだ」と言われたのです。
Ⅲ.天の国から遠ざける行為
さらに不幸が語られていきます。それは誓いについてです。「あなたたちは、『神殿にかけて誓えば、その誓いは無効である。だが、神殿の黄金にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う。愚かで、ものの見えない者たち、黄金と、黄金を清める神殿と、どちらが尊いか」と。
神殿の黄金とは、神さまに捧げられた物です。その黄金にかけて誓いをしたら、必ず果たさなければならない。でも神殿という建物それ自体は、人間が建てたものだから、それにかけて誓うならば、果たさなくても大丈夫。何か分かったような、分からないような理屈です。実際に、彼らがこう教えていたかどうかは分からないと、現代の聖書学者たちは口を揃えて言います。ここで主イエスは、誰が聞いても何か変、どこかおかしいと思うような理屈を、敢えて語ることで、律法学者、ファリサイ派の人々がしていることはこういうことなのだ、と際立たせて見せたようなのです。
そして最後の一つ、捧げ物についてです。「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである」。
確かに律法では土地の産物の十分の一を主に捧げることが求められていました。薄荷、いのんど、茴香というのは香辛料の類です。ただ律法にはこのような小さい物に関し十分の一を捧げるという規定を見つけることはできないのですが、彼らは細かい物まで徹底して十分の一を捧げていました。ただそのように重箱の隅をつつくようなことをしながら、「律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしている」彼らの姿勢、的を外した生き様をご覧になって、「不幸だ、災いだ」と言っておられるのです。
Ⅳ.何が不幸で、何が幸いなのかを知るために
ところで、ここまで「不幸である」という言葉に注目しましたが、実は「偽善者」、そして「ものの見えない」という言葉も繰り返し出て来ます。この3つは深い関係があるようなのです。「偽善者」とは「役者」という言葉から生まれました。舞台の上でその役柄の人のように演じて見せるのです。同じように偽善者もその人自身はそうでないのに善人を演じて見せるのです。ところが、ここで主イエスが律法学者、ファリサイ派が偽善者だという時、今お話したような意味と少し違うようなのです。普通、役者は役柄と自分を区別し演じるのですが、律法学者、ファリサイ派の人々は「ものが見えない」がゆえに自分の悪さに気づいていない。むしろいつの間にか自分が善人であり、信仰深い者であるかのように勘違いしているのです。
主イエスは日ごろから彼らの日常を観察されました。額の小箱を大きくし衣服の房を長くし、宴会や会堂では上座を求めるという行動を生み出す彼ら自身の内面を見抜いておられたのです。その動機は「すべて人に見せるため」だと言われます。見せようとするのが好きだからとおっしゃるのです。
では、何故、彼らはそうするのか。それは、神さまを知らないからだ、と主イエスは言われるのです。神との生きた関係があれば、そうした生き方には決してならない。本当に恐れるお方を恐れていたら人の目から自由にされる。安心して生きることができる。人の目を気にし、人の目にどのようにしたら大きく映るのかを考えて生活している律法学者、ファリサイ派の人々は神が見えていない。神との関係抜きで単なるお務めのように宗教行事や宗教生活をこなしている。信仰が全然分かっていない。だから不幸だと言われるのです。
宗教改革者のマルティン・ルターの妻ケイティの話です。ある朝、ケイティは喪服を着て夫ルターの前に現れました。驚いたルターは「誰が亡くなったのか」と訊くと、彼女は「あなたの神が亡くなったのです」と答えたそうです。ルターは「馬鹿なことを言うな。神が死なれるわけがないじゃないか」と言うと、彼女は「神が生きおられるなら、なぜあなたは神が死んでいるかのように振舞うの」と返したそうです。
神は生きて働いておられるのです。もし生きて働いておられ、私たち一人ひとりに深い関心を持っておられる神を心から信じていたら、あなたの生き方にどんな変化が起こると思いますか。私たちの生き方は本当に変わってくるのではないでしょうか!
律法学者やファリサイ派の人々は、神のことを「大事だ、大事だ」と口では言います。でも生活を見るならば、最後に大事にしていること、頼りにしているのは、結局はお金であったり、仕事であったり、今、置かれている人間関係の中で、人が自分をどのように見てくれるのか、そちらの方が断然、優先されるのです。その人の、時間の使い方、お金の使い方、気の使い方を見れば一目瞭然でしょう。神よりももっともっと優先している物や人がいる。そして突き詰めていけば、結局、この私、自分です。それこそ、誰かに喪服を着て出て来て貰い、面と向かって「あなたの神が死なれました」と言われるまでは気づかないでいることはないだろうか、と思うのです。
詩篇18編でダビデは歌います。「主は命の神。わたしの岩をたたえよ。わたしの救いの神をあがめよ」と。ダビデは「主は生きておられる。そのことを心から信じていますか」と、この詩篇を通して訴えています。そして本当にそのことが分かったら、見えてくるものがあります。それは、何が本当に不幸で、そして何が幸いなのか、です。私たちは幸いな道を選び取るように召されています。お祈りいたします。