和田一郎副牧師
出エジプト記24章3-8節 1テサロニケ5章25-27節
2020年6月28日
1、「聞く」ということ
パウロは今日の聖書箇所27節で「この手紙をすべての兄弟たちに読んで聞かせるように」と強く勧めています。当時、聖書は声を出して読み聞くものでした。日本語でも「聞く」という言葉は広い意味があります。漢字でも3つの漢字がありました。一番一般的な「聞く」という字は、音を聞くという意味から始まって広い意味でよく使われます。「聴く」という文字は「心で聴く、心を聴く」というニュアンスで使われるようですし「訊く」という文字は、訊問という言葉にも使われますが、厳しく問いただす際などに使われるようです。日本人にとって「聞く」という言葉は、状況に応じて漢字を使い分けることで細やかに表現しています。
では聖書に書かれている「聞く」という言葉はどうでしょうか。旧約聖書が書かれているヘブライ語で「聞く」というのは「シェマ」という言葉です。今日の旧約の聖書箇所でも「シェマ」という言葉が出てきます。出エジプト記24章は、シナイ契約を交わす場面です。神様はイスラエルの民に対して、様々な戒めを示されました。その中心は十戒です。十戒をはじめとする戒めに、従うのか従わないのか。問われているのが24章です。
荒れ野を旅するイスラエルの民にとって、神様はリアルに生きた神様です。
エジプトを脱出したのに、40年もの間、荒れ野を旅しなければならなかった目的というのは、神を中心とする生き方を確立させるためでした。その中心は神の言葉を「聞く」ということです。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である」この神の言葉どおりに「従う」ということでした。日本語の「聞く」という言葉は、どれも音や人の声を聞くことを現していますが、聖書において聞くものの対象は、まず神にあります。神の言葉を聞くことは従うことが求められます。ですから「シェマ(聞く)」という言葉には「従う」という意味が含まれています。ユダヤの聖書朗読をする人は、最初に「シェマ」と呼びかけるそうです。「聴け、従え」です。わたしたちの礼拝でも、まず「わたしは聴きます。従います。主よ、お語りください」という姿勢が大切です。
2、神の語りかけ
旧約聖書の時代、神様はモーセや預言者たちに直接語りました。たとえば、モーセが神の名前をなんと言えばよいでしょうか、と聞いた時「わたしはある、という者だ」と神様は具体的に教えてくださいました。そのように、具体的に神様のみこころを教えてもらえないものかと思うのです。しかし、それは旧約の時代のことです。神様からの直接的な語りかけはなくなりました。
旧約の時代は、イエス・キリストの十字架の贖いの業が成されて終わりました。イエス様によって救いの御業が完成して、それを証しする啓示として新約聖書が完成しています。さらに、聖書を神の言葉として理解できるように聖霊を送ってくださっているのが、今のわたしたちの時代です。聖書がある。その聖書を神の言葉として理解する聖霊の力が送られている。これは旧約の時代の人とは、くらべものにならない大きな恵みです。
旧約の時代も、いつも神の言葉を聞けたわけではないのです。特別な時に特別な人にだけ、限定的に語られました。しかし、今はいつでも神の語りかけを聞くことができます。この聖書の言葉が心に留まっていて、聖霊の力が働かれたら、いつでもどこでも神の言葉を聞くことができる時代にいるのです。
今日の聖書箇所5章27節「この手紙をすべての兄弟たちに読んで聞かせるように」とあります。ここでも「聞く」というのは、旧約聖書のシェマと同じように聞いて従うことをパウロは求めているのです。パウロはこの手紙を通して、テサロニケに人々が神に喜ばれる生活をするように求めました。イスラエルの民に十戒を授けたのと目的は同じです。神に聞き従う者となるため。神に喜ばれる生き方をするためです。十戒がモーセを通して、神様から授かったように、この手紙もパウロを通して語られた、神の言葉です。
テサロニケの人々がパウロの言葉を神の言葉として受け取ったことが2章13節に書かれています。「わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れた・・・」パウロは、わたしたちと同じ一人の人間ですが、パウロの説教や手紙を神の言葉として受け取ったというのです。
3、手紙が書かれた時代
この手紙が書かれた頃は、まだ福音書が書かれていませんでした。新約聖書のマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書、そして使徒言行録、パウロ以外の人が書いた手紙も、書かれたのはもっと後のことです。この手紙はパウロが書いた手紙の中でも初期に書かれた手紙でした。わたしたちは4つの福音書を読まずに、イエス・キリストを救い主とするイメージを持てるでしょうか。当時の人も口伝えで、イエス様の地上での生涯を聞いていたかも知れません。しかし、わたしたちが知っているほど、知ることはできなかったと思います。それでも、テサロニケの人々はイエス様を信じたのです。「イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます」(4章14節)とパウロは教えています。この手紙が書かれた20年程前に、エルサレムで十字架に架かって死なれたナザレのイエスという人が、旧約聖書で預言されたメシアだと、テサロニケの信徒は信じました。イエス様が死んで復活されたこと、同じように再臨の時に、わたしたちも復活してイエス・キリストと会うことができる。そのような、驚くべき希望が約束されていることを信じたのです。
今は27巻からなる新約聖書が整っています。自分の国の言葉で読むことができますし、解説書もあります。ビデオや映画も作られて、さまざまなかたちでイエス・キリストという方を知ることができます。しかし、当時はそういったものはなかったのです。あったのは、ただ聖霊の働きです。「わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです」(1章5節)。力というのは「神の力」です。神の力と聖霊、そしてそこから得られる確信がありました。手紙を書いたパウロも聖霊の働きによって、この手紙を書きました。その言葉を聞く者たちも、聖霊の力があったからこそ、神の言葉として理解することができました。聖霊によって書かれ、聖霊によって聞かれてきた、それゆえにこの手紙は「聖書」として今も残されたのです。
4、インマヌエル(神は共にいてくださる)
今日は、聖書における「聞く」という言葉には「従う」という意味が含まれていることを見てきました。奴隷の状態から救い出されたイスラエルの民にとって、神様のみことばはリアルで具体的でした。共に生きてくださる神様が、先立って昼は雲の柱、夜は火の柱をもって彼らと共に歩んで下さいました。ご自身の言葉を「聞きなさい、従いなさい」という神様は、言うなれば、そうやって「共にいてくださる」ということです。遠く離れて眺めている方であれば語りかけません。共にいるからこそ「聞きなさい、従いなさい」と言えるのです。イスラエルの民が旅した荒れ野の40年間。旧約の時代からパウロの手紙の時代を経て、今もわたしたちに「聞きなさい、従いなさい」と語り続ける神様は、常にわたしたち一人一人と、共に歩んでくださる神様です。苦難の時も挫折の時も、行き場のない闇の中にいる時も「聞きなさい、従いなさい」と語り続けてくださる。従うその先に、わたしたちの命があります。
「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」
(ヨハネによる福音書 8章12節)
最近2歳10か月になる息子は、言葉を覚えてきました。食事の前のお祈りの時は自分でやりたがります。いつも「きょうも、ともに、あることに、アーメン」と祈ります。教えたわけでもありませんが、どこかで聞いた言葉が残っていたのでしょう。わたしたち夫婦は、息子の祈りに心からアーメンと言えます。「きょうも、ともに、あることに、アーメン」「ああインマヌエル(神は共におられる)だな」と思います。いつも近くで語りかけてくださる神様、いつも御言葉を聞くことができる。そこに命があります。生ける神様と共にあるように。みことばと共にあるように。「聞きなさい、従いなさい」とおっしゃる神様が・・・「きょうも、ともに、あることに」感謝して、従っていきたいと願います。
お祈りしましょう。