松本雅弘牧師
マタイ福音書23章25―39節
2020年7月5日
Ⅰ.はじめに―前回の復習
マタイ福音書23章から3章にわたって記されていく、主イエスの教えに耳を傾けています。それは十字架でのご受難を目前にした教えで、言わば遺言のような教えだとお話してきました。そこで繰り返される言葉が、「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたちは不幸だ」という言葉でした。「ウーアイ(不幸だ)」という言葉が7回繰り返され、さらに「偽善者」、「ものの見えない」という言葉も繰り返し出て来ます。
日ごろから主イエスは、律法学者、ファリサイ派の人々の日常を観察し、彼らの行動の背後にある動機が「すべて人に見せるため」であることを見抜いておられた。だから尊敬され、称賛され、褒められることが大好きなので自分を自分以上に大きく見せようとしていると言われる。そしてその根本的原因は神さまと親しくないからだと主イエスは考えておられたようです。
Ⅱ.律法学者、ファリサイ派の姿と重なる私たちの姿
今日の箇所でも主イエスの厳しい批判の言葉が続きます。
「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる」(23:25-26)。
律法学者、ファリサイ派の人々にとって大切なのは人の目にどう映るかです。さらに続きます。
「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。このようなあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている」(23:27-28)。
当時の埋葬は土葬でした。当然、墓の中で遺体は腐敗する。宗教的にも死体は不浄とされていましたので、仮にお墓に触れたり、足が付いたりすれば、その人の体は汚れると考えられていました。そのため墓を白く塗ったようです。そして最後7つ目の批判の言葉が語られていきます。
「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしているからだ。そして、『もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかったであろう』などと言う。」(23:29-30)。
記念碑はそれによって、「私もこの人物と同意見だ。その人物と同じ考えを持つ人間だ」と、世間に示す意図があると言われます。でも主イエスは「その人物と正反対の悪事を働いているではないか。それこそ偽善の極みである」。「こうして、自分が預言者を殺した者たちの子孫であることを、自ら証明している」(23:31)と糾弾なさる。
主イエスの告発と嘆きが頂点に達し「先祖が始めた悪事の仕上げをしたらどうだ。蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか」(23:32-33)と言われるのです。
さて次第に、私たちの心は重くなってくる。では、私たちはどうしたらいいのでしょうか。
Ⅲ.み翼のかげに
今日の説教に37節から取って「み翼のかげに」と題をつけました。「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ」と、主イエスは嘆いておられるのですが、その嘆きで終わっていない。「めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか」と続くのです。
旧約の歴史を振り返ると、主なる神は幾度となく預言者を遣わしますが、神の民は預言者を次々と殺すのです。その事実に変わりはない。主イエスはその事実から目を背けるのではなくその事実に目を向けさせつつ、にもかかわらず「めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか」と、イスラエルの民に、そして私たちに対する神さまの御思いを知らせてくださったのです。
牧師館の2階の奥の部屋は備え付けの本棚のある書斎になっているのですが、窓の横にある戸袋に、毎年、ムクドリが卵を産むのです。春になって卵がかえると、雛は真剣になってピーピーと、親鳥が餌を持ってくるのを待っています。それ程までに親鳥の保護なしに生きることが出来ないことを本能的に分かっているからだと思います。そして同じく親鳥の本能でしょう。雛を一生懸命守ろうとする。以前、一羽の雛が戸袋から外に出ようとしたのでしょう。首を戸袋のところに挟んで死んでしまった。巣が空になった後、死んだ雛を見つけたことがあります。親鳥は雛たちが自分勝手に巣から出て行こうとするのを、何度も何度も、自分の羽の下に集めたのだと思います。
翼の下にいるのは雛です。親鳥の翼の外側は外敵から雛を守る堅い羽で覆われ、内側は温かい柔らかな羽で包まれていることです。そうした主の御力と愛にあなたも包まれ守られています。そうです!救いとは、慈しみ深い神さまのみ翼のかげに迎え入れられることでもあります。
Ⅳ.「両手いっぱいの愛」をもって
でも、私たちは、そのみ翼のかげにじっとしているだろうか。勿論、冷静な時には、〈そうありたい。そうしたい〉と思います。しかし現実はどうかと言えば、「めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか」の後に続く肩を落とすようにして語られた主イエスの言葉、「だが、お前たちは応じようとしなかった」のです。
主なる神が、預言者を通し、聖書の御言葉を通し、ある時は、目覚まし時計が急に鳴り響くように、想定外の出来事を通し、神さまは私たちをみ翼の陰に集めようとされた。でもそれに気づかない。その招きに応えない。自分の思いを貫いて生きているのです。
ですから、38節、「見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる」、これは人間が自ら選んだ道の結末を予告する言葉ですが、「結局は、滅びしかないのだ」、主イエスはおっしゃるのです。
ただ、本当に幸いなことに、神の救いはそれで終わらない。しぶといのです。最後の最後まで、「めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか」とおっしゃるように集め続ける。それが39節の御言葉にも現れています。39節。「言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない。」そうです。十字架のことです。
ある牧師が語っていました。「主イエスが最後に死んでいきながらお見せになった姿は、鳥が翼を広げてその下に雛を集めるように、両手を大きく広げて見せたお姿だったのではないだろうか、私たち罪人を守ろうとする姿ではなかったでしょうか」と。両手を広げたら自分を守ることはできません。一番無防備な姿勢です。でも、その一番無防備、両手を広げたままの姿で、何をされたかと言えば、私たちを守ってくださった。しかも、私たちを守るために、その十字架の上から、次のような執り成しの祈りをささげてくださったのです。
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)
子どもたちが歌う賛美歌の中に、「両手いっぱいの愛」という賛美歌があるのを御存じでしょうか。
ある日イエス様に聞いてみたんだ
どれくらい僕を 愛してるの?
これくらいかな? これくらいかな?
イエス様は黙って微笑んでる
もいちど イエス様に聞いてみたんだ
どれくらい僕を愛しているの?
これくらいかな? これくらいかな?
イエス様は優しく微笑んでる
ある日イエス様は答えてくれた
静かに両手を広げて
その手のひらに くぎを打たれて
十字架にかかってくださった
それは僕の罪のため ごめんね
ありがとう イエス様
私たちは、主イエスが大きく両手を広げておられるこの十字架のもとへ帰っていきたい。私たちを偽善から守るもの、自分を大きく見せる生き方から自由にしてくれるものは、十字架に示された神の愛、いや愛の神以外にありません。一番安全な主のみ翼の陰に、いつもとどまり、恵みと平安の内に、この1週間、歩んでいきたいと願います。お祈りします。