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主日共同の礼拝説教

耐え忍ぶことと待ち望むこと

松本雅弘牧師
マタイによる福音書24章1―14節
2020年7月12日

Ⅰ.弟子たちに対して明かされた秘密

先々週から九州全域に大雨のよる大変な自然災害が起こりました。大勢の人たちが命を落としたことでした。さらに首都圏を中心に新型コロナ感染者数が再び増加になりました。今日の聖書の箇所を見ますと、戦争の騒ぎや噂に加え、飢饉や地震などの自然災害のことも出ています。ところで今日の箇所は「福音書のなかの黙示録」と呼ばれる箇所です。黙示とは秘密が明らかにされることを意味します。1節を見ますと、神殿の境内を出て弟子たちだけになったところで、その彼らに対し秘密が明かされたのです。

Ⅱ.神殿の崩壊と終末

そうした主イエスの黙示を引き出すきっかけになったのが「神殿を指さす」弟子たちの行動でした。「主よ、よく見てください。よく御覧になってください」と注意を促したのです。それだけ神殿が弟子たちの心をとらえていた。
実は弟子たちのそうした行動には伏線がありました。直前にお語りになった主イエスの言葉、「見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる」という言葉です。「お前たちの家」とは神殿のことです。ですから主イエスが神殿の境内を出て行かれた、その時、「見捨てられる」と主イエスの言われた神殿をまじまじと見ながら、〈こんな立派な神殿なのに、本当にそうなの?!〉という思いを込めて、主イエスに神殿の建物を指さし、注意を促したのだと思うのです。ところが止めをさすように、「一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」と神殿をさして言われた。目の前にそびえ立つ神殿の立派な姿からしたら想像できない出来事だったのではないかと思います。
その思いを引きずったまま、主イエスと弟子たちはオリーブ山に行きました。弟子たちからしてみたら境内で聞いたことが気になって仕方がなかったのでしょう。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか」と彼らは尋ねたのです。この時の弟子たちにとって神殿の崩壊イコール、世界の崩壊、世の終わりを意味していたからです。

Ⅲ.世の終わりの徴

ところで、3節にある弟子たちの質問に気になる言葉があります。弟子たちは、「世の終わるとき」のことを「あなたが来られて世の終わるとき」と、「あなたが来られて」という言葉を添えているのです。つまり弟子たちは、主イエスの再臨を「世の終わり」と受けとめていたということなのです。
一般に「世の終わり」と聞けば、もうお終いと理解するものでしょう。希望も何もない破滅のような状況を思い浮かべます。ところが聖書の終末理解はそうではありません。世の終わりとは完成の時、そのために主イエスが来てくださる、という世の終わりです。これは大切な点です。これ以降の主イエスの言葉は、このような終末理解を前提に語られている。
だからこそ主は言われる。「人に惑わされないように気を付けなさい」。世の終わりについて間違った教えに惑わされ、誘惑されることがあるからです。では、どういう点で惑わされやすいのでしょう。1つは「偽キリスト」の出現です。もう1つは「戦争の騒ぎや戦争の噂」です。でもこうした状況を見た時に「慌てないように気をつけなさい」と。何故なら「そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる」という理由があるからです。
ここに飢饉や地震という自然災害に関する言葉が主イエスの口から飛び出しました。先週、九州に続き、岐阜・長野も大雨が襲いました。パオロ・ジョルダーノの『コロナの時代の僕ら』に、こんな言葉がありました。
「ウイルスは、細菌に菌類、原生動物と並び、環境破壊が生んだ多くの難民の一部だ。自己中心的な世界観を少しでも脇に置くことができれば、微生物が人間を探すのではなく、僕らのほうが彼らを巣から引っ張り出しているのがわかるはずだ。
増え続ける食料需要が、手を出さずにおけばよかった動物を食べる方向に無数の人々を導く。たとえばアフリカ東部では、絶滅が危惧される野生動物の肉の消費量が増えており、そのなかにはコウモリもいる。同地域のコウモリは不運なことにエボラウイルスの貯蔵タンクでもある。
コウモリとゴリラ―エボラはゴリラから簡単に人間に伝染する―の接触は、木になる果実の過剰な豊作が原因とみなされている。豊作の原因は、ますます頻繁になっている豪雨と干ばつの激しく交互する異常気象で、異常気象の原因は温暖化による気象変動で、さらにその原因は……。
頭がくらくらする話だ。原因と結果の致命的連鎖。しかし、ほかにいくらでもあるこの手の連鎖は、以前に増して多くのひとが考えるべき喫緊の課題となっている。なぜならそれらの連鎖の果てには、また新たな、今回のウイルスよりも恐ろしい感染症のパンデミックが待っているかもしれないからだ。そして連鎖のきっかけとなった遠因には必ずなんらかのかたちで人間がおり、僕らのあらゆる行動が関係しているからだ。
この本の序章で、僕はあえて少し大げさな表現を用いて、今起きていることは過去にもあったし、これからも起きるだろうと書いた。だだそれは、いい加減な予言ではない。そもそも予言ですらない。むしろ、あくまで客観的に、こう付け加えてもいい。COVID-19とともに起きるようなことは、今後もますます頻繁に発生するだろう。なぜなら新型ウイルスの流行はひとつの症状にすぎず、本当の感染は地球全体の生態系のレベルで起きているからだ。」
私たちが経験する「自然災害」と呼ばれるものは、もはや純粋な意味での自然災害ではなくなっているのではないか、ということです。例えば「飢饉」のことも出て来ますが、飢饉も自然災害でしょうが、その大きな原因は「食物の分配の偏り」だと言われます。食物は十分にあるのに飢饉が起きているのが実情です。食料分配の不均衡も温暖化も、世の終わりの前にはそういう事が起きてくる。
8節を見ますと、「しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである」とありますように、そうした出来事は世の終わりではなく、それらは世の終わりの前兆にすぎない。さらに今度は私たち教会に関する主イエスの言葉が続きます。「あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる」とあります。
キリストへの信仰を持つがゆえに迫害される。教会の外側から受ける迫害です。今、中国や香港で起きている状況に重なります。それだけではありません。
12節を見ますと、「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える」。教会内部においても自分を守るために愛が冷えていく。それだけ厳しい迫害が起こるということでしょう。あるいは教会に対して大きな迫害がなかったとしても、ある人の言葉を使うならば、些細なことで躓きが起こったり、憎み合うようになったり。一体何のために信仰生活をしていたのだろう、と問わざるを得ないほど、信仰共同体である教会自体が揺さぶられる経験もするかもしれません。

Ⅳ.耐え忍び待ち望む

コロナ禍にあり動画を観ながらバラバラに礼拝をしている私たちにとって、そもそも礼拝って何なのか。教会って何なのか。インターネットを検索すれば、どこの教会の動画も見ることができる中で、今後、高座教会という共同体に所属する意味ってどこにあるのか。そのような意味で、私たちは今、正に、惑わされ揺さぶられているのかもしれません。
ただ、主イエスの教えはそこで終わりません。「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る」とあります。私は、この言葉を読んだ時に、「派遣の言葉」を思い出しました。「平和のうちに世界へと出て行きなさい。」
世界は悪魔の勝利で終わるのではなくキリストの勝利で終わる。確かに悪魔力がこの世界を支配しているかに見えるような状況がある。しかし私たちは愛を冷やさずに伝えていく。それが私たち教会に託されている使命です。
ある牧師が語っていました。この世の語る終末論には希望がない。怖れと慄きに包まれ、口から出る祈りの言葉は、「どうぞ、そうした日が来ませんように」ということでしょう。しかし神の国の福音に生きる私たち教会は違うのです。「御国が来ますように」と祈るのです。何故なら、その時、その終わりの日に、キリストにあって世界は真の喜びに満たされるからです。お祈りします。