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主日共同の礼拝説教

キリストの警告

松本雅弘牧師
マタイによる福音書24章15節―31節
2020年7月19日

Ⅰ.主イエスが語る終末

ここ数回に分けて主イエスの最後の教え、遺言とも呼ばれる教えに耳を傾けて来ました。主イエスが心を傾け、存在をかけてお語りになっていることとは、一言で言うとキリストの再臨です。「その苦難の日々の後、たちまち太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。そのとき、人の子の徴が天に現れる」。
古代の教会では、この「人の子の徴」を「天に現れる十字架の徴」、十字架に磔になったイエス・キリストの姿が現れる、と理解していたと言われます。ゴルゴタの丘の小さな十字架ではなく、誰もがどこからでも見えるような巨大な十字架の徴が天に現れる。
「そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る」とあるように、自分たちイエスを磔にしたことに気づくゆえに、それがどんなに恐ろしく、悲しむべきことなのかを改めて知らされるのだというのです。

Ⅱ.いつ起こるのか

さて「世の終わり」と聞く時、誰もが知りたくなるのは、「それがいったい、いつ来るのか」ということでしょう。主イエスの弟子たちもそうでした。この質問に対して主イエスは様々な徴についてお語りになりました。
偽キリストの出現、戦争の騒ぎやその噂、飢饉や地震などの自然災害。教会への迫害は、教会内部での争い。そして根底に、人々のうちに愛が冷えることが特徴だとお語りになったのです。今日の箇所でも大きな苦難や偽メシア/偽預言者の出現についても話されました。ただ最終的には弟子たちのこの質問に対し主は「知らない」と答えておられる。「わたしも、他の誰も知らない。ただ父なる神だけがご存じなのだ」とだけおっしゃったのです。つまり、分からなくて当然。神さまの領域に属することだからです。
神は意地悪なお方ではなく、慈しみ深い父なる神さまなのだという信頼があるところに、先々のことを委ねる信仰も湧いてきますが、しかし信頼がないところで、「わたしも、他の誰も知らない。ただ父なる神だけがご存じなのだ」とだけ言われると、不安しか心に生じないということも起こるかもしれません。

Ⅲ.終末の現実

そのような人々の典型がテサロニケ教会の兄弟姉妹でした。世の終わりというプレッシャーのなか、ある極端に動いてしまった。具体的には、すぐ終わりの日が来るからと言って仕事を放り出してしまったのです。
ですからパウロは、「わたしが命じておいたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい。そうすれば、外部の人々に対して品位をもって歩み、だれにも迷惑をかけないで済むでしょう」(Ⅰテサロニケ4:11)と勧めるのです。
確かに主イエスがいつ戻って来られるのか分かりません。明日かもしれませんし、ずっと先かもしれない。ただ確かなことは、主イエスは再び来てくださる、そして主をお送りくださる神は、慈しみ深い父なる神だ、ということです。だから信頼して「目を覚ましていなさい」と主は語られるのです。
主イエスの教えからすれば、21世紀に生きる私たちも「世の終わり/終末」に生かされています。終末を生きる神の民の生き方について、宗教改革者のマルチン・ルターは、「明日、世の終わりが来ようとも、私は今日リンゴの木を植える」と語ったと言われます。
命の方、希望の方を選び取っていく生き方です。終わりの日を見据え、今という時を、心を込めて生きていく。それも破滅の道ではなく、命の道。戦いの道ではなく、平和の道。対立ではなく、共存の道。子どもっぽい道ではなく、大人としての道を選び取っていく生き方が、神を信じる私たちの生き方だと語ったのです。
先週、教会員からYouTubeのリンクが送られてきました。北大の西浦博教授と京大の山中伸弥教授との記念対談、その後の質疑応答の動画でした。正直、視聴して身の引き締まる思いにさせられました。対談の後、西浦教授の言葉が心に残りました。
「純粋に、学者として言うならば、あまり明るい希望は抱けない。今後、流行を繰り返しながら(ウイルスの)弱毒化するか否かを観察し続ける」「野球でたとえれば2回表のウイルスの攻撃といったところで、まだこんな回が残っているのかという現実に対峙していかなければならない」「世界が壊れないといいがと真剣に心配している」。改めて〈これが現実なのだ…〉と溜息が出ました。深刻な状況に立たされている。まさにマタイ24章で予告されていることが、私たちの身の回りで現実に起こっているかのようです。
こうした中、「どうぞ、そうした日が来ませんように」ではなく、心から「御国が来ますように」と祈れるのか。「明日、世の終わりが来ようとも、私は今日リンゴの木を植える」歩みができるのか、ということでしょう。
先週の説教で、「御国が来ますように」と祈れるのは、再臨の日にキリストにあって世界は真の喜びに満たされるからだと結びました。では、そもそも主イエスが実現しようとなさる「神の国/神の国のビジョン」とは何だったのでしょうか。

Ⅳ.神の国のビジョンに生きる―「御国を来たらせたまえ」と祈りつつ

思い出していただきたいのですが、主イエスは、ヨハネから洗礼を受け、その後、悪魔の試みを受けたのちに、ガリラヤに戻り宣教を始められました。お育ちになったナザレにまず行かれ説教なさった。いわゆる「就任説教」です。
ナザレの会堂に入ると渡されたイザヤ書の言葉を読み終え、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と宣言なさった。つまりここに書かれたことを行うために私はメシアとなったと語られた。
「主の恵みの年」とは50年ごとのヨベルの年のことです。当然ですが50年も経てば経済的な格差が生じます。ヨベルの年とは50年ごとのリセットの恵みです。借金の帳消し、土地の返還、奴隷の解放が起こる。但し、ここで問題になるのは貧しい側の人々にとっては恵みの年なのですが、逆に富んでいる側の人々にとっては恵みでも何でもない。ですから、旧約学者の間では、実際にヨベルの年が行われたかどうかについては分からない、むしろ疑わしいとされています。
ただ大切なことは主イエスがもたらす福音によって実現しようとなさった神の国のイメージが、このヨベルの年にあらわされているという点です。でも現実はどうだったかと言えば、故郷ナザレの人々はイエスとそのお方の語る神の国の福音を受け入れることができず、イエスに対して憤慨し殺そうとさえしたのです。つまり「主の恵みの年」に現わされた神の国の恵みは当時のユダヤ人にとっては面白くない恵みであったということです。私たち人間は既得権を放棄しにくいからです。
私たち教会が、2千年の間、「御国が来ますように」と祈り求めている神の国はこのような神の御心が満ち満ちている。神の無条件の愛に満たされている。でも、それを主イエスの生き方を通して実際に見せていただき、主イエスから語り聞かされるとき、私たちはどう反応するのだろうか。
思い出したいのですが、「天の国はこのようなものである」と言ってお語りになった、あの「ぶどう園の譬え」でも、最後に1時間しか働かなかった、いや色々な理由で働けなかった労働者に最初に賃金を渡す主人の行動が理不尽だと違和感を覚えてしまう。しかし、それが神の国だと主イエスはおっしゃるのです。こうした神の無条件の愛を受け取ることは、結構難しい。生き方の変更をも迫るからです。自分がしがみついているもの、自分の捕われや自己中心的なものを変えて分かち合い、愛に生きる者へとなっていくかどうか。そのことによって私たちは癒されていく。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く者が本来の姿だからです。
パウロはローマ書のなかで、キリストにあって私たちがどのような者とされたのかと説いてきた後、12章に入り、神の国に生きる、神の国を先取りした生き方を説かれたのです。
聖書が説く、イエスが模範を示された神の国の市民としての生き方は、実は私たちの心深くに、本当に憧れる、真に人間らしい生き方なのではないでしょうか。終わりの日を見据え、今という時を、心を込めて生きていく。それも破滅の道ではなく、命の道。戦いの道ではなく、平和の道。対立ではなく、共存の道。子どもっぽい道ではなく、大人としての道を選び取っていくことだと思うのです。その手助けのために、いやその実現のために主イエスは来られ、そして再び来られるからです。お祈りします。