和田一郎副牧師
ヨブ記19章25-26節
1テサロニケ5章28節
2020年7月26日
1、恵みに始まり、恵みに終わる
今日は、テサロニケの信徒への手紙一の最後の一節です。「わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたと共にあるように」という祝福の御言葉から、「恵み」という言葉を中心にパウロの手紙を見ていきたいと思います。「恵み」という言葉はキリスト教の専門用語でもあります。日本語の辞書を見ると「めぐむこと」「なさけをかけること」とありました。哀れな人に対して、恵みを与えるといった心遣いとして使われます。聖書においても同じニュアンスで使われることもあるのですが、信仰的な使われ方においては、神から人へ与えられるということが前提になっています。「神から人へ与えられる恵み」です。
たとえば旧約聖書では、有名な詩編23編の最後の句でも「命のある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う」とあり、恵みと慈しみが神から一方的に来ることを意味しています。しかし、新約聖書で使われるギリシャ語には、そのような神から一方的に受ける恵みといった概念の言葉がなかったようです。ギリシャ語では恵みのことを「カリス」といいます。それは当時「親切な」とか「感謝」と言ったニュアンスで一般的に使われていて、聖書の中でもそのように使われている箇所もあります。そのカリスという言葉に「神様から無条件で与えられるもの」「相手を分け隔てしないで、神様から一方的に与えられるもの」という信仰的な概念を加えたのが、使徒パウロと言われています。パウロはローマ書に次のように記しています。
「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」(ローマ書3章24節)。恵みというのはイエス様がいるからこそ与えられる、善い知らせ(福音)ですから、イエス・キリストそのものを表すと言っていいかも知れません。そして、神様から一方的に与えられるものです。何が一方的かというと、何か良い事をしたとか、捧げ物をしたとかは関係ない。善人であろうと悪人であろうと関係なく、ただ信仰さえあれば与えられるという良いものです。あのアブラハムがそうでした。アブラハムは何か良いことをしたのでもなく、ただ神の言葉を信じました。その信仰によって義とされた、それが大いなる恵みです。
2、テサロニケの信徒への手紙における恵み
このテサロニケ第一の手紙で「恵み」という言葉は2か所にしかありません。手紙の一番最後の箇所と、もう一つは1章の1節最初の箇所です。つまり、最初と最後に恵みという言葉が書かれ、恵みに始まり恵みに終わっている手紙です。この手紙においてパウロが言う「恵み」とは何でしょうか。
まず一つは、テサロニケの信徒たちが迫害に耐えて守ってきた「信仰」です。彼らがイエス様を信じる信仰をもっていること自体、特別な恵みでした。テサロニケの信徒の多くは異邦人でした。それはかつてあり得なかったことです。神の救いはユダヤ人だけ、割礼を受けて、律法を守るユダヤ人だけが救われるとされていました。しかし、そうではなく、すべての人々が救われることを神様は望んでおられる。そのことを教え、道を開いたのがイエス様であり、それがキリストの恵み福音です。キリストの恵みがなければテサロニケの人々が救いに与ることなどなかったのです。聖なる生活をしながら、再臨の希望を持てるようになったのです。この再臨の希望もまた、キリストを通して与えられた恵みです。キリストはまたこの地上に来られる、そして完成した神の国に生きることができます。これは大きな希望であり恵みです。
3、恵みという概念の完成者パウロ
先程、恵みというギリシャ語「カリス」の信仰的な概念を完成させたのがパウロだと話ました。福音書の中でも「恵み」という言葉はルカによる福音書で使われ始め、福音書の続編として書かれた使徒言行録の後半になって「イエスの恵みによって救われる」といった言葉が書かれます。ルカはパウロの伝道旅行に一緒に同行した人ですので、パウロの働きを支えながらパウロが語る「恵み」の意味を、福音の中心を示す言葉として理解していったのではないでしょうか。
さて、そのパウロはどのようにして「キリストの恵み」という概念をもっていったのでしょうか。パウロが書いたコリントの手紙には次のような言葉があります。
「わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。 神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです」(コリントの信徒への手紙一15章9-10)
これはパウロの実体験から証をしている言葉です。パウロはクリスチャンを迫害する人でした。12人の弟子達とは違って、イエス様と旅をした経験もありませんし、ペンテコステの出来事の時もその場にはいませんでした。しかし、パウロはダマスコという町に行く途上で復活したイエス様と出会ってしまって、すべてが変わったのです。それは突然起こったイエス様からの一方的な出来事でした。イエス様から異邦人へキリストの名を伝える使徒になるように示されましたが、そのような難しい使命をパウロは「今あるのは神の恵みだ」と言ったのです。諸外国の異邦人への伝道という苦労は並大抵のことではありませんでした。しかし、それも恵みとして働き「働いたのはもはや自分ではなく、神の恵みそのものが働いたのだ」と、告白するのです。自分を誇るのではなく、あくまでもキリストの恵みが自分の働きを成したのだと言うのです。そのように生きてきた経験から、福音の中心は「キリストの恵み」であると確信したのです。十字架で死んでしまったと思っていたナザレのイエス、そのイエス・キリストとダマスコの途上で会ってしまった。復活したイエス様と会ってしまった。その生けるキリストが自分の中で働いている。働いたのは、わたしと共にある神の恵みキリストなのだ。これがパウロの「キリストの恵み」に生きているという証しです。
パウロがこのように「キリストの恵み」について手紙で書き、行く町々で説教をしながら「恵み」という言葉がキリスト教会の大事なキーワードになっていったようです。
先ほど福音書のマタイ・マルコの福音書には「恵み」という言葉が使われていないと話ました。四つの福音書の中で最後に書かれたとされているヨハネによる福音書には「恵み」という言葉が、深遠な表現によってキリストそのものを言い表す言葉になっています。ヨハネによる福音書1章14-17節「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。・・・(16節)わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである」
14節には「キリストは恵みと真理に満ちていた」とあります。神であられる方が、人となってわたしたちの間に住んでくださった。その方には、すべての人に与える救いがあり永遠に続く真理となる。キリストを通してそのことが成されるというのです。そして16節に「恵みの上に、更に恵みを受けた」とあります。旧約聖書の時代には律法が、神様から与えられた救いの手段でした。しかし、キリストによって律法という恵みの上にさらなる恵み、分け隔てせずすべての人が救われるという恵みが増し加えられた。律法の成就がキリストによって成されたのです。ヨハネによる福音書が書かれた頃には、福音の核心として「恵み」という言葉が記されています。
4、恵みをかぞえる
今日はテサロニケの信徒の手紙の最後の一節から、「キリストの恵み」について分ち合ってきました。恵みは神様から一方的に与えられるものだと言いました。しかし、選び取るのはわたしたちです。わたしたちは生活の中で自己中心であったり、人を妬んだり、批判をしたりすることを選ぶこともできます。普通に生活をしていれば、自己中心になってしまうのが自然なことでしょう。しかし、求められていることは、何を選び取りましたか?ということです。本来、目を向けなければならない、いつも降り注ぐキリストの恵みを受け取っているだろうか、それとも自己中心や批判することを選び取っていないだろうか。
パウロが勧める聖なる生活とは、恵みを選び取ることです。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい、すべてのことに感謝しなさい」と、日々の恵みを選びとっていく生活をこの手紙で伝えています。
この手紙が恵みに始まり恵みの言葉で閉じられているように、一日の始まりが恵みで始まり、恵みで終わる信仰生活となるように、パウロはこの手紙の最後の一節で祈っています。「わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたと共にあるように」
この「キリストの恵み」を受け取るのは、誰でもない、このわたしたちです。キリストの恵みは、その人の人生にも、その人の日々にも、一人一人に与えられています。自分に与えられた恵みを、誰かが受け取るのではなく、この自分で受け取っていきましょう。
お祈りをいたします。