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主日共同の礼拝説教

滅びを突き抜ける希望

松本雅弘牧師
マタイによる福音書24章32―51節
2020年8月9日

Ⅰ.天地は滅びる

ここで主イエスは「天地は滅びる」とはっきりとおっしゃるのです。その「天地」の中に被造物世界の一部である私たち人間も含まれる。でも私たち人間はなかなか自分たちが死ぬ、滅びるということを受けとめることが難しい。そこで主イエスは創世記のノアの出来事をお語りになります。ノアの物語を聞いて改めて気づかされることがあります。ノアは隠れて箱舟作りをしたのではなかったことです。森のど真ん中、その時代の人たちの目の前で箱舟作りに精を出したのです。ノアとあの時代の人々との違いはどこにあったのか。神の言葉に対する姿勢の違いにあったのではないか。神の言葉、それが警告であれ、約束であれ、そうした神がお語りになった御言葉を額面どおり真に受けるのか、それとも割り引いて聞こうとするのか、そうした御言葉への姿勢の違いにあったように思うのです。

Ⅱ.父なるお方と飲み食いの関係

ここで主イエスは責めておられるのではありません。あるいは「食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしている」ことがいけないと脅しておられるのでもないのです。そうではなく、「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである」とおっしゃって、その日、その時は、父なる神だけが知っていて、しかもその神はあなたがたの父なるお方なのですよと語っておられることに注意したいのです。
思い出していただきたいのですが「祈ることを教えて下さい」と求める弟子たちに「天におられるわたしたちの父よ」と祈るように教えて下さいました。神を「父」と呼ぶことは当時は一般的ではありませんでした。そのような中で主イエスは「父」と呼ぶように教えて下さった。しかも元々天におられる、その父なる神の懐から来られた御子イエス御自身が、「そう呼びなさい」と教えてくださった。それが「父」という呼び方でした。
先週、15名の新しい神の家族が私たちの群れに加えられました。洗礼に備えカンバーランド長老教会の大切にしている幾つかの教理も聖書か

ら学びました。その1つが神と私たち人間の基本的関係が「親子の関係」という教えです。従来のウェストミンスター信仰告白では、神と人間との関係は法的な関係、この世界を神の律法が支配する「法廷」と見る世界観があったのに対し、私たちの教会は神と人間との本来的関係は「親と子」という親子関係であり、したがってこの世界は、「ホーム/家庭」なのだと告白します。その確かな証拠に、主イエス自らが神を指し「父」と呼ぶように教えてくださっているのです。しかも実際にお使いになった言葉は「アッバ」という、とっても砕けた呼び方、「お父さん/お父ちゃん」と呼びなさい、と言われるのです。主イエスは、そのお方に向かって、「日ごとの糧を今日、与えてください」。私の分だけ、少し広げて私の家族だけの糧ではありません。私たち人類に「日ごとの糧」をお与えくださいと祈るように教えて下さった。このように見て来ますと、「食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしている」ことがいけないどころか、飲み食いする物を求めるようにと教えておられるのが、他でもない主イエス御自身だということなのです。
ですから、ここで主イエスは、飲み食いに意味がないとおっしゃっているのではないのです。飲み食いはとても大切です。めとること、嫁ぐことも大事なのです。ただ、その大切な日々の生活のなかでも、終わりの日が来ること、また私たち自身も土に帰る時がくることを忘れないようにと語っておられる。もっと言えば35節、これが今日の聖書箇所のキーワードですが、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」そうです。「わたしの言葉は決して滅びない」。このことを忘れないように。滅びることのない、この主イエス・キリストの言葉に生きるようにということなのです。

Ⅲ.「わたしの言葉は決して滅びない」

前回の説教で、私自身、大変ショックを受けた、「8割おじさん」こと、北大の西浦博教授の言葉をご紹介しました。「世界が壊れないといいがと真剣に心配している」という、その言葉にどこか頷いてしまう私を発見したのです。コロナ禍にある世界、自然災害に見舞われ、今日は長崎に原爆が投下され75年が過ぎた日でもありますが、正に主イエスが予告している世の終わりの様相を呈しているような印象を持つのです。そう言えば、子どもの頃、関東大震災級の大地震がいつかやってくる。いつやって来てもおかしくないと聞かされ、物凄い恐怖心を抱いたことがありました。そう聞かされ、また聞かされ続け、私にとってはすでに50年以上の月日が流れています。地震一つとっても、ある種の滅び、終わりのようなことを薄々感じていている。飲み食いの生活、いわば日常生活をしながら、私たちは心のどこかで、死を意識しているのではないでしょうか。実際、ここ2週間の間に3名の方たちの葬儀をさせていただきました。つい先日までお交わりのあった方たちです。
ですから、主イエスははっきりとおっしゃる。私たち人間を含め「天地は滅びる」のです。でもそれだけで終わらない。もう一つ決して忘れてはならない現実がある。それが35節の後半、「わたしの言葉は決して滅びない」ということなのです。滅びない、確かなものが残されている。それが「わたしの言葉」、御言葉の約束、御言葉に裏付けられた現実、それが私たち神を信じる者が拠って立つ、滅びを突き抜ける希望なのです。
「私たちにも祈ることを教えて下さい」と求める弟子たちに対して主は、「天におられるわたしたちの父よ」と祈るように教えて下さいました。そしてその時、「どうぞ、そうした日、世の終わりが来ませんように」ではなく、心から「御国が来ますように」と祈るようにと教えてくださっています。「御国が来ますように」と祈ることができるのは、「人の子」が来られる再臨の日に、主イエスにあって世界は真の喜びに満たされる、私たち一人一人もキリストに似た者として完成される、という約束の御言葉をいただいているからです。だからこそ、ルターが言うように、「明日、世の終わりが来ようとも、私は今日リンゴの木を植える」歩みを続けることができるのです。
私たちはボーっとしていると、天地が滅びることのみに心が向いてしまい、恐ろしさのあまり、「どうぞ、そうした日が来ませんように」としか祈れなくなります。他でもない、そうした私たちを滅びから守り、本当の意味で意義ある生涯を送れるようにと、主は御言葉を語り続けてくださる。滅びを恐れるのではなく、むしろ心を高く上げ、「御国が来ますように」と祈り、神さまからいただく日々において、「たとえ明日、世の終わりが来ようとも、私は今日リンゴの木を植える」歩みを続けることができるように、そのためにこそ、主イエスは、決して滅びることのない、私たちを生かす御言葉を語り続けておられる。ですから、私たちは、それを聴き続けていくことが大切なのです。そしてそのことが、その日がいつ来ようとも、備えが出来ていることにつながる。

Ⅳ.滅びを突き抜ける希望

そうした備えることについての信仰者の姿勢について語るのが、32節からの「いちじくの木の教え」であり、45節から出てくる、「忠実な僕と悪い僕」の教えです。
最初、「いちじくの木の教え」ですが、ここで主イエスは、いちじくの木を観察し、そこに変化を観たならば、夏の近づいたことが分かる。同様に「これらのこと」、すなわち、この直前の31節まで語られた様々な終末の徴、終わりの日を示す徴を観たならば、「人の子が戸口に近づいていると悟りなさい」と言われます。普通は、終わりの日の徴を観たなら怖くなるものです。でも信仰を持っている者たちは違うのです。何故なら近づいて来られるお方が「人の子」、主イエスだからだ、と言うのがその理由です。
主イエスの教えからすると、いまを生きる私たちも、聖書がいうところの「世の終わり/終末」に生かされています。天地は滅びるでしょう。しかし主イエスの希望の福音の言葉は滅びない。そして、終わりの日は完成の日、喜びの日だから。
ですから今週も私たちは、先輩のルターと共に、「明日、世の終わりが来ようとも、私は今日リンゴの木を植える」と告白しながら生きることが許されているのです。お祈りします。