松本雅弘牧師
マタイによる福音書25章1―13節
2020年8月16日
Ⅰ.譬え話のあらすじ
今日の譬えの筋は実にシンプルです。花婿がやって来るのを花嫁の友人、十人のおとめたちが待っていました。ところが夜中になってもやって来ない中、彼女たちは皆、居眠りをする。しばらくして花婿到着の知らせを受けて飛び起きるのですが出迎え用のランプの火が消えかかっていたのです。半数の五人は予備の油を用意している中、残りの五人はそうしておらず、油を分けて欲しいと賢いおとめたちに願うのですが、断られ、急いで買い求めて帰って来たときには、すでに花婿が到着していて婚宴が始まっていました。中に入れて欲しいと必死に願うのですが、それがかなわなかったという話です。
Ⅱ.分かち合うことのできないもの
この譬え話を聞く時、五人の賢いおとめは厳しいとか冷たいと思ってしまいますが、主イエスはそのことを問題にされるのではなく、人生には「分かち合うことのできないものがある」ということを示そうとしておられるのではないかと思うのです。勿論、分かち合うことの出来るもの、分かち合うべきものもたくさんあります。特に、今の時代、分かち合うべきものがとても多いようにも思います。
今日の週報に、「小会報告」を掲載しました。今月に入り、日本中会のアジア宣教小委員会から、「香港中会に対する祈りと献げもののお願い」という書簡が送られてきました。そこには現在の香港中会の様子が報告され、祈祷課題が挙げられていました。それについてはぜひ分かち合っていきたいと思いますし、また分かち合っていかなければならないと思います。つまり分かち合うべきものがあるのです。
聖書を見ても主イエスのチャレンジに応じた少年が、手元にあった五つのパンと二匹の魚を分かち合った結果、男だけで五千人、女性や子どもたちを含めたらおよそ一万人以上の人々にいきわたりました。勇気のある、その少年のパンと魚の分かち合いによって、神さまの恵みの出来事が豊かに広がっていきました。これも分かち合った結果、起こった神の恵みの出来事です。
しかし主イエスは、分かち合うことのできないものもあることを伝えているように思います。例えば、人間の基本的な営みである、「食べたり、飲んだりすること」もその一つです。夏バテ気味で食欲が落ちていたとしても、「あなた、私の代わりに、その食事、食べてください」とお願いしたとしても、その人が食べたり飲んだりすることで、私の夏バテは解消しない。私が自分の口に食べ物や飲み物を流し込まなければ体力は回復しません。
以前、サンフランシスコカンバーランド長老教会に立ち寄らせていただいた時、その教会の長老が、「教会には〈神の子〉はいるけれども〈神の孫〉はいない」と話された。
意味を尋ねると、「聖書には、〈神の子〉という言葉が何度も出てくる。しかし〈神の孫〉という表現は一度も出てこない。実際、私が〈神の子〉なら、私の子は〈神の孫〉にあたる。しかし聖書に〈神の孫〉という言葉はない。つまり信仰は、親が信じているから大丈夫と言う世界ではない。1人ひとりが〈神の子〉とされる必要がある」と話されたのです。
賢いおとめたちは、どこか冷たいように感じます。でも、私たちが感じる冷たさや厳しさは、賢いおとめたちのせいではなく、むしろ人生そのものが兼ね備えている、人から借りた油ではやっていくことのできない厳しさ、決して分かち合うことの出来ない油というものがあるという、場合によっては冷たく感じてしまう事柄のせいなのではないかと思うのです。
13節で主イエスは、「目を覚ましていなさい」と言われるのですが、ここではおとめ全員が居眠りをしていました。だとしたら賢さと愚かさの境目は眠っていたかどうかではなく、油の用意があったかどうかでしょう。もっと言えば灯をともしているかどうかです。ここで主イエスは、私たちにとっての油は何か、灯が何かについても特に語ってはいません。私たちの信仰生活は油を用意して生きるようなものだとある牧師は語っていました。確かに油の用意ができていれば、平安の内に身を横たえることができる。でも用意ができていなければ、いざ何かが起こった時に慌ててしまいます。
この譬えをお語りになった場面は受難週です。十字架にお架かかりになる直前の説教なのです。そもそも何で主イエスは十字架に苦しむ必要があったのか。そうです。それがなければ神さまと私たちの間に和解が成立しなかったからです。私たちと神さまとの間の繋がっていない道を自らの命をもってつなげるために、十字架でその尊い命を捧げられた。そのようにして、御自身にしかともすことの出来ない灯を、ともしてくださったのです。そしてそれは私たちにも当てはまります。
私たちは神さまから授かった生命、あるいは「人生」と呼んでもよいでしょう。そうした「いのち」をいただいています。そして聖書によれば、私たちは誰でも、この歴史上、決して二つとない、ユニークな唯一無比の存在として生かされています。時代、国や地域、性別や嗜好、生まれ育った環境、ある意味、自分では選べない、ある種の制約や条件をも含めて、神さまが造られたこの世界で、一日一日を生きるようにと選ばれている。そう考えてみますと、この私を引き受けて生きていくこと自体が、別の誰かが私に代わって生きてはくれないと言う意味からして、決して分かち合うことのできないものなのではないか。主イエスはその厳粛な事実を伝えようとしているのではないかと思います。
Ⅲ.憐れみ深い神さま
3年前の夏休み、大阪女学院を見学しに行ってまいりました。チャペルがあり、そこに「十人のおとめの譬え話」を題材にした絵が掛けられているのです。
エーミル・ブルンナーが、ヨーロッパの教会でよくみられる、十人のおとめの絵や像について「教会が神の裁きを示すために、このような裁かれた者と救いに与る者とを対比させて彫刻に掲げていることには、根本的な間違いがある。聖書の読み違いがあるのだ」と語っていたそうです。
ブルンナー先生に言わせるならば、大阪女学院のチャペル入り口に掲げられた絵は、そこを通る生徒たちが、「ああ自分はダメだ。愚かなおとめになりそうだ」とビクビクさせ不安にさせるために掛けられているのではないのです。逆に「先週は教会にも行けたし、このところ聖書も読めている。献金もしたから、イエスさまが来られても、賢いおとめのようにしていられるから大丈夫」と安心させるためのものでもないのです。
そもそも主イエスが来られたのは何のためなのか。十字架にお掛になるのは何のためだったのか。それは誰かを滅ぼすためではなく、私たちを救うため。そのために十字架にかかってくださったのです。もっと言えば、賢いおとめと愚かなおとめの区別を消して、みんなでキリストをお迎えできるようになるために、主イエスはわざわざこの譬えをお語りになったのです。
注意したいのですが、この譬え話には閉められた扉のことが語られていますが、それは花婿が到着したからです。でも、いまこの時はどうでしょう。まだ花婿は到着しておられないのです。ですから、扉は閉じられていません。締まってはいないのです。ある牧師が語っていましたが、主イエスは、「もう一杯です」とか「扉は閉じられました」と宣言しておられるのではない。「さあ、お入りなさい。誰でも入って来なさい。ぜひいらっしゃい」。そう招いておられる。だって、そのためにこそ、これから十字架で命を捧げようとしておられる。落とそうとしてハードルを高くしているのではないのです。救うためにとことんハードルを下げ、いやそれをなくしてしまわれたのが十字架に現わされた無条件の神の愛なのです。
Ⅳ.礼服を着て婚宴が開始されることを待ち望んで生きて
この説教の準備をしながら、既にご一緒に味わったマタイ福音書22章の記されている、もう一つの「婚宴の譬え」が心に浮かびました。婚宴に招かれた人は誰も来ようとしないのを知った王は「町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい」と命じられた。そして自ら礼服を準備された。
私たちがすべきこと、それはこの主イエスの招きに応えること。十字架によって準備してくださったイエス・キリストという礼服を着て、その主が来られ婚宴が開始されることを待ち望んで生きていくことなのです。お祈りします。