和田一郎副牧師
詩編37編21-31節
2テサロニケ1:1-2節
2020年8月23日
1、テサロニケの町と使徒パウロ
パウロがこの第二のテサロニケの手紙を書いたのは、第一の手紙を書き送ってから、間もなく書いたようです。テサロニケという町は、今でもギリシャの中ではアテネに次いで2番目に大きい都市でテッサロニキと呼ばれています。当時はマケドニア州の主要都市でした。マケドニアというのは、世界史に出てくるアレキサンダー大王が世界帝国を築き上げた国です。パウロの時代にはマケドニア王国はローマ帝国の支配下になっていて、ローマ帝国の支配下にあるマケドニア州となっていました。ローマの影響を強く受けてローマ皇帝に対する尊敬と忠誠心が強かったのです。皇帝の銅像が置かれ、ローマ皇帝を祭る神殿がありました。つまり皇帝礼拝が行われていました。ですからクリスチャンたちが、皇帝礼拝を拒否したならば、反社会的な人々とも思われかねないことでした。
パウロはかつてそのテサロニケの町に行って宣教をしました。その時ヤソンというユダヤ人と出会って、彼の家に滞在したのです。パウロは彼の家やシナゴーグと呼ばれる会堂で説教をしてイエス・キリストの福音を伝えました。誰にも経済的負担をかけまいとして、昼も夜も天幕作りの仕事をしながら生計を立てて伝道しました。テサロニケの教会の中には、イエス・キリストの再臨の時は近い、この世の終末は近い、だからコツコツと働く必要はないと、仕事を怠ける者がいたのですが、パウロは自分が模範となって天幕作りの職人をしながら伝道したのです。そこから「働こうとしない者は、食べてはならない」という言葉が第二の手紙に書かれていて、それが「働かざる者、食うべからず」という諺となりました。これは、再臨の時まで自分に与えられた仕事をしっかりして、信仰生活を守りなさいという教えです。
パウロがテサロニケの町で、福音を伝えたことによって教会が形成されました。しかし、それを妬んだのはユダヤ教のユダヤ人たちでした。ユダヤ人たちはパウロを滞在させていたヤソンの家を襲撃したのです。しかし、ヤソンはパウロをかくまいました。そのおかげでパウロたちはテサロニケの町から逃げてきました。パウロたちがコリントの町にたどり着いてしばらく滞在している頃「テサロニケの信徒は、迫害にあってもパウロの教え通りにしっかり教会が保たれているらしい」という知らせを聞いて、いてもたってもいられずに書いた手紙が、この二つのテサロニケの信徒への手紙です。
この二つの手紙は何について書かれているのでしょうか。それは、キリストが終末の時に、再び地上に来られる「再臨」について書かれているのが特徴です。ですから二つの手紙は「再臨書簡」と呼ばれています。再臨の時までにキリスト者がどのように生きていくべきか。その信仰生活について述べられています。
よく「人は生まれたときから、死に向かって歩んでいる」と言います。人生のゴールは死であると。しかし、この手紙は死に目を向けながらも、今をしっかり生きること、再臨というゴールの時、主イエス・キリストが来られて永遠の休息、平安に入るという信仰をしっかりともちながら、今を生きなさいというパウロの教えです。
パウロは具体的に「働きたくない者は、食べてはならない」しっかり自分の仕事をしなさいと教えました。「仕事」は「仕える」という字を使います。仕えることが仕事です。他者に仕える、世の中に仕える、そして何よりもイエス・キリストに仕える者としてこの世を生きて、死の先にある再臨の時に平安の報いを受けなさいと、パウロはこの手紙で教えています。
2、祝福の源 アブラハム
今日の聖書箇所の2節は、祝福の祈りです。パウロがテサロニケの人々のために、祝福を祈っている箇所です。ここで「祝福」という言葉に注目したいと思います。祝福とは「神の愛によって恵みを与えられること」をいいます。神様に「祝福の源」と言われたアブラハムに与えられた祝福の言葉があります。
「主はアブラムに言われた。『あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。 わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る』」(創世記12章1節‐3節)
この箇所では、「地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る」と書かれています。アブラハムによってすべての人々が祝福に入るというのです。確かにアブラハムに与えられた祝福はイサク、ヤコブ、そしてその子孫である12部族に及びました。そして、霊的なアブラハムの子孫である私たちにも、その祝福は受け継がれています。
パウロもキリスト者を迫害する呪う者から、キリストに出会って祝福する者となりました。パウロは説教や手紙で、人々を祝福しながら旅をしたのです。そして、テサロニケの教会は祝福され、今や他の教会の模範となって祝福する者となりました。祝福が周辺の町に受け継がれていったのです。
聖書が言っていることは、祝福はそこに留まらない、受け継がれていくということです。「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです」(1ペトロの手紙3章9節)
たとえば祝福が受け継がれる例に幼児洗礼があります。神様はアブラハムに言いました。
「・・・あなたの後に続く子孫と、わたしとの間で守るべき契約はこれである。すなわち、あなたたちの男子はすべて、割礼を受ける」(創世記17:10)。契約とは「あなたによって祝福に入る」とアブラハムと交わした約束です(創世記12:3)。その「しるし」として割礼を受けなさいというもので、幼児洗礼は割礼が原型になっています。新約の時代には、神とアブラハムの約束(契約)の子孫として祝福の中に入る、その「しるし」が幼児洗礼によって表されています。教会と家族は、その子が「神の家族」となっていく責任を担うという大切な働きです。幼児洗礼も「あなたによって祝福に入る」という営みの一つとなっています。
3、イエス・キリストによる祝福
しかし、この祝福はイエス様が来られるまでは限られた人にしか与えられないものだと思われていました。人間的な目で見て立派な人、成功している人しか神様の祝福を受けられないと、神の御心を誤って理解されていました。そこにイエス様が地上に来られて、山上の説教で8つの祝福について話されました。「心の貧しい人々は、幸いである」と始まった言葉は「八福」と呼ばれている祝福の言葉です。「幸いである」とは、「祝福がある者」と訳していい言葉です。「心の貧しい人、悲しむ人々は、祝福があります」となります。「柔和な人、義に飢え渇く人、憐れみ深い人、心の清い人、平和を実現する人、義のために迫害される人、わたしのためにののしられ、迫害される人、あなたがたは祝福されています」と、イエス様は宣言されました。当時の常識では考えられない祝福の理解でした。人間の目で見て良い人も、悪い人でも、成功して見える人も、苦しんでいる人にも「祝福があります」と言われました。しかし、大事なのは理屈よりも、イエス様が「祝福がある、幸いがある」とされたから、幸いがあるということです。人から見れば不幸に見えても、イエス様が「幸いである」と言われるなら、それは幸いな人です。山上の説教では自分には幸いなどない、祝福には入れないと思ってきた人たちが祝福されたのです。彼らは祝福を受け取り、やがて祝福を受け継ぐ者となっていきました。
4、生きた祝福
わたしは山上の説教を聞いていて、今年の春に天に召されたN兄のことが思い出されました。N兄はずっと一人暮らしをされて、歳を重ねてからは施設に入居されていました。若い頃から脳梗塞の障害が残ってしまったので不自由が多かったと思います。Nさんが初めて行った病院で、「あらNさん?」と声をかけられたそうです。初めての病院でしたが、そこに他の病院でNさんの看護をしたことのある看護師さんが覚えていたというのです。Nさんはどこに行っても人気者でした。笑顔を絶やさずに、周りを和やかにする賜物がありました。長い間、障害を抱えて暮らしていたNさんは、人の目には豊かな人生には見えなかったかも知れません。しかし、ずっと信仰をもっていてイエス・キリストのゆえに「あなたは幸いです」と祝福された人でした。私はお見舞いに行った時、生きた祝福を見る思いでした。
山上の説教に集まった人たちのように、イエス・キリストを見上げて、キリストの言葉を受け入れる者は、その人の心の中に「幸いです」とイエス様は宣言してくださいます。その幸いは、自分に与えられた仕事を守り、死の先にある最終的な平安を信じて生活していく時、わたしたちの幸いは、隣人に受け継がれていくものです。
神様はアブラハムに「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」とおっしゃいました。私たちクリスチャンが、祝福に入った者として正しく立つ時、家族や周囲の多くの人を幸いなる者、祝福された者として導くようになります。この祝福を受け継ぐ者でありたいと願います。 お祈りをいたします。