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主日共同の礼拝説教

主に託された務めに生きる喜び

松本雅弘牧師
マタイによる福音書25章14-30節
2020年8月30日

Ⅰ.私たちの悩み

私たちの悩みの1つは、自分で選んだのではない条件で生きていかなければならない、ということにあるかと思います。私の父は小さな洋品店を営んでいました。何で自分は洋品屋の両親のもとに生まれたのだろう、と何度も考えたことがありました。友人たちが羨ましくてしょうがない。その理由の1つは、自分で選んだ服を着ることが出来るということにありました。私が着せられる服は子どもが着るような色柄の服ではない。お店で売れ残った品物を裁縫の上手な母が仕立て直した物を着せられました。おじさん臭い色、柄、生地なのです。それがもう嫌でたまりませんでした。好き好んで洋品屋を営む両親のもとに生まれてきたのではありません。程度の差はありますが、私たち誰もがこうした課題を抱えながら生きている。最初からある種の条件のもとに生活を始めなければならない。しかも、そうした条件が、しばしば私たちにとって「悩みの種」になることが多いように思います。今日の「タラントンのたとえ」は、こうした悩みを抱える私たちに大切な方向性を示す教えのように思います。

Ⅱ.タラントンの譬え話

ある人が旅に出かけるにあたって僕たちを呼び、1人には5タラントン、1人には2タラントン、1人には1タラントンを預けて旅に出たというところから譬え話は始まります。1タラントンは6千デナリオン。労働者6千日分の賃金です。およそ20年分の賃金に相当する額です。確かに預けられた額に違いがありますが、一番少ない1タラントンでも実際には本当に大きな額です。つまり誰もが多くの賜物を預けられ、しかも期待され生かされている存在である。価値のない人生なんか1つもない。1人ひとりは、実に価値ある、尊い存在なのだ、ということを教えられます。
ただそうは言っても、預けられたタラントンの違いが気になるものです。こうした額の違いはどこに出てくるのでしょう?15節に見落としてはならない表現が出て来ます。「それぞれの力に応じて」と書かれています。例えば、重さ10キロしか持つことの出来ない人が常に50キロの荷物を抱えながら生きていかなければならなかったとしたら、とてもシンドイ。分不相応でしょう。ここで主イエスは持ち物の量によって評価したりはしておられない。むしろ、「それぞれの力に応じて」タラントンの量が違っていると言われる。そうした上で19節に次のように書かれています。「さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた」とあります。その続きの20節からの箇所を見ますと、5タラントン預けられた人は5タラントン儲け、2タラントン預けられた人は2タラントン儲けました。ところが、1タラントン預けられた人は地の中に隠しておき、結果的にその僕は外に追い出されてしまったという結末です。
ところでこのことだけを取り上げて解釈するならば、私たちの価値がその人の働きや成果にかかっている。そうしたことを教えている譬え話だと理解されてもおかしくないかもしれません。あるいは「働かざる者、食うべからず」ではありませんが、働かなかった者は切り捨てられる、といったように読めなくもない。そうなると神の国もこの世の世界も、結局、同じ価値観が支配しているではないか、と思われるかもしれません。いかがでしょう?
ここで「成果」を挙げた人に注目したいと思うのです。5タラントンの人は5タラントン儲けましたし、2タラントンの人は2タラントンを儲けたのです。成果主義で考えるならば、両者の差は6タラントンに拡がっています。でもここでとても興味深いことが分かります。それは、主人がこの2人の人に対して、全く同じことを言っているという事実です。「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。」ギリシャ語を見ても、一字一句、全く同じです。成果の違いによって評価は変わっていない。むしろ全く同じです。

Ⅲ.主に託された務めに生きる喜び

こんな話があります。動物たちが集まって森に学校を建てました。その学校には、水泳、かけっこ、木登り、空中飛行などの科目があり、しかも人間の学校のように、すべての動物が全ての科目を取らなければならないといった規則もありました。そして人間の学校のように森の学校にもテストの季節がやってきました。ご存知のようにアヒルは水泳が得意です。でも木登りは苦手。かけっこも上手とは言えません。ですから木登りやかけっこが上達しませんから、放課後残って、一生懸命木登りとかけっこの練習をしました。ところがこの練習がたたって、アヒルは足を痛めてしまった。その結果、得意だった水泳の試験でも、ごく平凡な成績しかとれませんでした。ただ平均的な成績でしたので、アヒル本人以外には、誰もそのことに気づきませんでした。リスは木登りが上手でした。しかし空中飛行はストレスでした。全然、上手くいきません。そのクラスではいつもイライラ、いくら頑張っても木から落ちるだけ。体もボロボロ、疲れもたまり、その結果、得意のはずの木登りでも成績が振るわず。かけっこも惨めな結果に終わりました。
私たちには、これならば喜んでできるというものが必ずあるはずです。勿論、ある程度、まんべんなくやることは大事ですが、運動ベタな人にどんなに運動を教えても、難しい場合もあるでしょう。でも神さまは、その人に何か別のタラントンを与えておられる。ですから私たちがすべきことは、与えられたタラントンを地の中に隠すのではなく、それを磨き、用いていけばよいのです。
パウロはコリントの教会に向けて、「そこで神は、御自分の望みのままに、体に1つ1つの部分を置かれたのです」と語りました。アヒルをアヒルに造られたのは、慈しみ深い神さまの御心によるものということでしょう。恐れる必要など全くないのです。大事なことは、自分にタラントンが与えられており、そのタラントンを地の中に隠して何もしないのではなく、磨き、用いることです。
そして先ほど、5タラントンの人と、2タラントンの人に向けて語られた主人の言葉をもう一度見て見たいのです。「主人と一緒に喜んでくれ」とあります。私たちにタラントンを預けた大きな目的は何かと言えば、主人の喜びを共にするということです。小さな子どもが、台所で、お母さんのお手伝いをする時、本当に満足をする。物凄い喜びで満たされる。お母さん一人でしてしまえば、時間もかからず、おいしく仕上がる料理ですが、敢えて、子どもに手伝わせると手間もかかります。効率もよくないかもしれません。でも、そうする。何故かと言えば、作る喜び、作った物を家族が食し喜び合う幸せを子どもと一緒に分かち合うためです。「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。 主人と一緒に喜んでくれ。」とは、そうした意味なのです。

Ⅳ.他者を生かすために与えられている賜物

実は、このあと、主イエスは、十字架につけられて殺されていかれます。この譬えを聞きながら、決して忘れてはならないことに気づかされます。それは十字架の出来事が愛の出来事、私たちが生かされていくための、主イエスによる犠牲的愛の出来事だということです。主イエスが自己犠牲的愛の結晶としての十字架の死を目前にして、いま、タラントンの譬えを語っておられるのです。一人一人に託されているタラントン、すなわち神が私たちに託す尊い宝は、決して自分ただ1人を生かすものではない。もっと積極的な生き方を期待して、主は託しておられる。その預けられたタラントンを用いて、いかに他の人々を愛し、どうしたら他の人々を生かすように使っていくことができるのか、正に主イエスは、十字架を通して身をもって示そうとなさったのではないかと思うのです。
そして最後、私たちは預けられた賜物をいつかまた主にお返ししなければならない日が来るということを忘れないように、と主イエスはおっしゃる。私たちはその日をどのようにして迎えるのか、です。その日、私たちは喜んで主の御前に進み出ながら、「主よ、本当に感謝でした。あなたからお預かりしたものを精一杯用いさせていただきました。今、あなたにお返しします。本当にありがとうございました」。喜びをもって、そのように告白できる人生を求めて、この1週間も歩んでいきたいと願います。お祈りします。