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主日共同の礼拝説教

最後に問われること

松本雅弘牧師
申命記10章17-19節
マタイによる福音書25章31-46節
2020年9月6日

Ⅰ.譬え話と私たち

1994年、生島先生が退職され、海老名の開拓に出られた後、私たちは牧師館に引っ越してきました。当時は、ちょうどバブルがはじけた直後で、職を失った人や問題を抱えた方たちが、よく牧師館を訪ねてきました。そうした方たちとの出会いを通し、いつも心に浮かんだ聖書の物語が、今日、ご一緒にお読みした、主イエスの、この譬え話でした。私たちも、日々の様々な人たちとの出会いを通し、時折この譬え話を思い起こすのではないでしょうか。

Ⅱ.人の子の再臨

さて、今日の譬え話も十字架に付けられる直前に語られた一連の教えの中の一つで、しかも地上における主イエスの最後の説教と呼んでも差し支えないものです。
主イエスは、こう物語り始めます。「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。」主イエスのこの宣言に耳を傾ける時、まず、そのスケールの大きさに圧倒されるのではないでしょうか。
前回の「タラントンの譬え」でもそうでした。私たちはいつか人生の総決算を求められます。ところが、ここでは、私たち個々人の総決算ではありません。主イエスご自身が再び来られる、「世の終わり」に「すべての国の民がその前に集められる」というのです。「すべて」とはその時点で生きていた人間に限られません。これまで生きてきた全ての人間が甦り、人の子の前に集められる。人類の総決算、歴史の総決算です。
先々週の金曜日、突然、安倍首相が辞任表明をしました。直後、次の自民党総裁が誰になるのか。連日、新聞、テレビを賑わしている話題です。改めて一国の首相というのは大変な存在なのだと思います。しかし今日の教えに耳を傾ける時、その時点で、総裁選であろうが、2か月先にアメリカ大統領選があろうが、それがいかに大切な営みであったとしても、人の子である主イエスが再び来られたならば、その時点で全ての営みが即座に中断され、「すべての国の民がその前に集められる」という。そして何が始まるかと言えば、いわゆる最後の審判が始まる。そしてその審判において問われることが、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」ということです。

Ⅲ.神さまはどういうお方なのか

ここで、主イエスは、「この最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたこと」、逆に、「この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったこと」と、最後の審判で問われることを明らかになさいました。厳密に見ていくならば、ここで主イエスは、「この最も小さい者の一人に」と一番価値のない者と思われている最も小さい者たち、その中のたった一人に対してのことを私は問うとおっしゃっているのです。
そこで問われる具体的な業の一つ一つが35節から36節に出て来ます。食べさせたり、飲ませたり、見舞ったりと、日常のごくありふれた業です。世界政治を左右したり、あるいはノーベル賞の対象となるような学問的業績を上げたとか、あるいは、「これらの最も小さい者」と呼ばれる人たちを出来るだけ多く集め、そうした人たちをサポートする事業をスタートさせ運営する。あるいは、そうした働きに協力したか、しなかったか。ここで主イエスは、そうしたことを問うているのではありません。本当にごくごく小さな業を問題になさったのです。私は、この譬えを繰り返し読む中で気づいたのですが、王、すなわち「人の子」が、右側に集め祝福した人たちに向かって、「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」とお語りになった時に、そう言われた当の本人たちは、「主よ、いつわたしたちは、そんなことをしたでしょうか」と答えている。当の本人たちは身に覚えのない、忘れてしまうほどの小さな業なのです。聖書が大事にしている「愛」という言葉すら使われていない。確かに見知らぬ人に食事を出し、その時一緒に水を提供したかもしれないけれど、その見知らぬ人を愛していたかどうかと問われても、そのようなことは念頭になかったに違いない。でも主イエスはそうしたことを、世の終わりにおいて、問題になさるというのです。
大阪の釜ヶ崎で働く本田哲郎という神父さんがおられます。その方が、『釜ヶ崎と福音』という書物を書いておられる。その本には副題がついていて「神は貧しく小さくされた者と共に」とあります。その『釜ヶ崎と福音』という書物は最初に、F.アイヘンバーグという人の版画が紹介されていました。「小さくされた者の側に立つ神・・・! サービスする側にではなく、サービスを受けなければならない側に、主はおられる。」という言葉と一緒に出てくるのです。その絵が描くのは炊き出しの列に並ぶ主イエスの姿です。本田神父は、釜ヶ崎で長年働くことで、このアイヘンバーグさんの目と感覚を共有するようになった。人が人として生きる最も基本的な事柄が脅かされるような人のところに、主イエスは共におられる。貧しく、苦しみの中にある者、そこに主イエスがおられる。ある人の言葉を使うならば、そこまで深く、低く、主は人間になられたのです。見方を変えて言えば、今日、私たちが生けるキリストと出会うのは、まさにそうした人々を通してであると本田神父は語るのです。

Ⅳ.愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったから

今日の旧約聖書の朗読箇所、申命記に聖書の神さまはどのようなお方なのかが明確に述べられています。「あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。」(申命記10:17-18)それが私だ、とおっしゃる。
そうした上で、続く19節に「あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であった。」と書かれています。今日のたとえ話と全く同じなのです。申命記の神、主イエス・キリストの神は、最も小さい者の味方なのです。そしてこれは、今年の高座教会の主題聖句も同様です。愛の小さな業、やった本人も忘れてしまうような、ちっぽけな業に生きようとしている。いや実際に生きている。それは、彼らが神さまから大切にされていることを実感し、神さまから祝福されていることが分かっている故に出来るのだ、とヨハネは説くのです。「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったから」なのです。
主イエスは、「最も小さい者の一人」、貧しく、弱く、様々な苦しみの中にある一人の人のことを、「わたしの兄弟」と呼び、最も小さい者の味方となり、しかも、「最も小さい者の一人」をご自分と一体化しておられます。確かに、今日の譬え話において主イエスはさばきの言葉をお語りになりますが、この後、どうなさるのかと言えば、十字架に向かって歩まれるのです。それは、私たちが一人も滅んでほしくない、裁かれて欲しくないと、主御自身が望まれるからです。主イエスが再び来られる時に、私たちに向かって、「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。」と宣言するために、十字架にお掛になるのです。
あなたがたは愛の業を行ったから祝福を受けるのだとか、善い業をしたから御国に入るとは、一言もおっしゃってはいない。そうではなく、あなたがたはもう祝福を受けている。神さまに愛されている。その愛に留まるように、その祝福の内に留まるようにと勧めるのです。
私たちは、この素晴らしい恵みに既に与っている。主イエスが十字架において救って下さったから、だから私たちは最後の時に向かって「最も小さい者の一人」の内にキリストを見出し、「最も小さい者の一人」、いやだれに対しても、「さあ、どうぞいらっしゃい!ここに、あなたがたの取り分がありますから!」と主の祝福を伝える歩みへと召されている。なぜ、それが可能なのか?「神がまずわたしたちを愛してくださったからです。」お祈りします。