松本雅弘牧師
詩編86編1-17節
マタイによる福音書26章1-13節
2020年9月20日
Ⅰ.最後に残された御業に向けて
マタイ福音書26章から受難物語が始まります。その書き出しが「イエスはこれらの言葉をすべて語り終えると」というものです。実は次の展開へと筆を進める合図のような表現で、マタイ福音書では節目々々に出て来ました。そして26章1節にも出てくるのですが、今までのものとは一つだけ違う点があります。それは「すべて」という言葉が添えられている点です。「すべて語り終える」とは「すべて」なのです。地上の生涯においてご自身が語ろう、教えようとなさったすべてを語りつくしてしまわれた。そして今から最後に残された業に臨もうとなさる。それが十字架でした。
ところで、マタイは弟子に語られた主イエスの言葉を記録し、ご自身が2日後の過越祭に十字架に付けられることを宣言する一方、同じ十字架を巡って祭司長たち、長老たちの計画も明らかにしています。彼らは、「民衆の中に騒ぎが起こるといけないから、祭りの間はやめておこう」と計画したのです。当時、過越祭に引き続き除酵祭というお祭りがありました。そうした期間を合計するとほぼ8日間です。祭司長たち、長老たちが一番心配していたのは民衆の暴動でした。当時、祭りの期間中は二百万人ほどの巡礼者が集まったと言われています。ですから一通り祭りが終わり、巡礼者が帰って行った後、つまりおよそ1週間後に主イエスを逮捕し殺そうと考えたのです。つまり、何を言いたいかと言いますと十字架の時期のズレです。主イエスのお考えでは2日後、祭司長たちの考えでは1週間後なのです。
私たちは、ここで本当に謙虚にさせられるのではないでしょうか。いくら人間が策を練り周到に準備した計画、それを1週間後に実行に移そうとしていたとしても、主は2日後に決めておられた。イスカリオテのユダをはじめとする弟子たちの裏切りも含め、全ての事柄を相働かせて、主の御心が成就していく。そして、このあと続く6節から始まるエピソードは、2日後の十字架の出来事に結びついていくような、ある名もなき女性の主イエスへの奉仕の出来事がユダの裏切りを引き起こす伏線となったことを、マタイは伝えています。
Ⅱ.油注ぎの出来事
主イエスが、重い皮膚病の人シモンの家で食事をしておられた時のことです。そこに一人の女性がやって来て、入って来るなり、スゥーっと主イエスに近づき、突然、持っていた石膏の壺を割り、主イエスの頭に香油を注いだ。ところが、彼女の行動を近くで目撃した弟子たちは、驚き呆れ言葉を失います。「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができたのに」と憤慨して言ったのです。
これに対して主イエスは不思議なことをおっしゃった。「この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた」と。この時、彼女がそうしたことをどこまで理解し、そして意図してやったかどうかは疑わしいでしょう。ただ、そうした中で、一つだけ確かなことがある。それは、主イエスご自身が、彼女の思い、気持ちをしっかり受けとめておられたこと。それも、はたから見たら衝動的で単なる香油の無駄遣いのような行動を、ご自分の最後の任務として受け止めておれた十字架への道行きに必要な尊い愛の奉仕として受け入れてくださったということなのです。
Ⅲ.弟子たちの反応
しかし、そこに居合わせた弟子たちには、どうしてもそう受け取ることはできませんでした。実はこの出来事の直前、23、24、25章と続く主イエスの説教を聴いていたのです。その総括として「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と、驚くような言葉を聞いたのです。その時の主イエスの声のトーンさえも、まだ耳の奥に鮮明に残っている。弟子たちにしてみれば、最も小さい者の一人に対する施しについての衝撃的な教えを聞いた直後でもあり、施しのマインドになっていたのだと思います。その教えからすれば、何と無駄なことをしているのか、この女は!
でも、いかがでしょう。私たちは心の中にあることと、口から出ることは違うことがよくあります。問題はその人の本心はどこにあるのか、ということでしょう。いくら口では立派なことを言ったとしても、果たして心の内はどうなのか?私たち自身、胸に手を当てて考えてみると、こうした経験は誰もが知っていると思うのです。
別の福音書を見ますと、この場面でこの発言したのは、イエスを殺そうとしていたファリサイ派の人たちであったとしています。一方ヨハネ福音書では、他でもないイスカリオテのユダだったと語ります。時に福音書の記述はまちまちで、事実関係はどうだったのか分かりません。ただ、ある人によれば、一つだけ言えることがあるというのです。それはユダ以外の弟子たちであろうと、ユダと同じように思い、場合によってはファリサイ派と同じ思いになり得るということなのではないか、と。
Ⅳ.主イエスの愛に満たされて
主イエスの弟子となった使徒パウロは、エフェソ教会の兄弟姉妹に向けて、「だから、心に留めておきなさい。あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。」と語っています。パウロが語るのは、〈かつて自分がどんな者であったのか〉、言い換えれば、〈どこから救われたのか〉ということを思い出すことは、クリスチャン生活にとって本当に大事だから。そうした神の恵みを「当たり前」のように考え、神さまを侮ることがないようにとパウロは願ったからです。そして今日の箇所においても、私たちそれぞれに対する神の恵みや憐れみを忘れ、そうしたことを当然と考えている者にとって、彼女のこの行動は決して理解できないのです。
かつてサウロと呼ばれていた頃の彼、パウロはひどい迫害者でした。彼は自らのことを思い起こしては、《神さまの驚くばかりの恵み/アメージング・グレイス》に圧倒されていました。それは自己卑下するためではありません。自分が一体どのようなところから教会の交わり、救いへと招かれたかを心に留めるのは、神の恵みが当然のことのように受け、その結果、あのラオデキアの教会のように最初の愛から離れて、神さまの祝福を十分に受けることを妨げられることがないためです。
ある方が話していました。大きな病気にかかり、開腹手術を受けた。2週間くらい点滴だけで何も口に入れることができなかった。しばらくして水が飲めるようになり、重湯が食べられるようになる。おかゆをいただき、そこに米粒が浮かんでいるのを見て、涙が出るほどうれしかった。〈ああ、ここまで回復した。生かされているのだ〉と思った。ベッドの脇に立つことができるようになり、廊下や病院の屋上や庭を歩けるようになる。そして退院できた。ところが、半年も経つと昔と同じように不満の中で文句ばかり言ってしまう。そうした、愚かな現実が自分にはある、というのです。
「当たり前」という思いほど恐ろしい思いはなく、「当たり前」という思いほど、神さまの恵みをメチャクチャにし、この「当たり前」という思いほど、周囲に何かを要求する姿勢を生み出す思いはないのではないでしょうか。
ですからパウロは、クリスチャンである私たちが、神の前に心を静め、〈ああ、自分はどういうところから救われたのだろう。自分はどういうところから、恵みの世界に導かれたのだろう〉と思い起こすように、と勧める。その目的は神さまをほめたたえ、感謝するためです。
この女性の行動は、常識でははかれない。むしろ非常識極まりなかった。この世の価値観、常識で判断したならばその通りです。でも神の恵みの世界から見る時、当たり前が当たり前ではないのです。
そのためにこそ、主イエスは、2日後にご自身の命をもって、私たちを多く赦し、多く愛することで本当の喜びをもたらそうとなさった。この女性と共に、多く赦され、多く愛された者として、主イエスの愛に満たされて生きるようになるためなのです。お祈りします。