和田一郎副牧師
創世記18章17-19節
テサロニケの信徒への手紙二1章6-10節
2020年9月27日
1、信仰をもったばかりのテサロニケの人々
パウロの宣教によって真の信仰をもったテサロニケの信徒たちは、町の人々から迫害されるという、苦しみを受けていました。しかし、いかがでしょうか。信仰をもったとたんに、苦しみを受けるというのは、本来の信仰を持つという動機からするとおかしなことになっていると思うのです。何らかの救いを求めて信仰をもったのに、この神様を信じたが故に、苦しみを受けてしまっては本末転倒のように思われます。わたしたちにも心当たりがあります。クリスチャンになったとたんに、家族や友人との関係がギクシャクしてしまうということも、あるのではないでしょうか。
2、神の正義
今日の聖書箇所6節でパウロは「神は正しいことを行われます」といってます。聖書には「正義」とか「義」という言葉がよくでてきます。キリスト教用語といってよい言葉です。聖書において「義」というのは道徳的な正しさや、社会正義という意味を越えて「神の正しさ」という意味で使われます。神は、「良いこと」と「悪いこと」を正しく聖別してくださる。神様がよしとされることを「神の義」といいます。
6節―7節「神は正しいことを行われます。あなたがたを苦しめている者には、苦しみをもって報い、また、苦しみを受けているあなたがたには、わたしたちと共に休息をもって報いてくださる」。とあるように、神様は正しいことをするので、報いてくださいます。それも、苦しめる者には苦しみをもって報いてくださるというのです。わたしたちは「悪をもって、悪に報いてはなりません」という信仰をもっています。悪に対して悪をもって抵抗してはならない、ではその悪は野放しなのかというと、そうではない。
良いことを良しとし、悪いことを悪と定める神様は、正しく悪を裁かれます。裁くのは人ではない、神さまが相応しい時に、相応しい形で裁いてくださいます。
「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」(ローマの信徒への手紙12章19節)
そして、苦しみを受けている人への報いは「休息」が与えられるといっています。それも「わたしたちと共に休息」を得られるのですから、遠く離れているパウロたちと共に、同じように苦労の報いとして休息が与えられる。
しかし、その報いとは、いったい何時になるのでしょうか。それが書かれているのが7節後半、「主イエスが、力強い天使たちを率いて天から来られるとき、神はこの報いを実現」するのです。つまり、再臨の時、終末の時に報いが実現するとされているのです。
イエス様がもう一度来られることを「再臨」と言います。ちなみに、再臨に対して最初に来られた時は「初臨」と言います。家畜小屋でお生まれになった、最初にイエス様が来られた時は「初臨」。そしてもう一度、来られる時を「再臨」。私たちは今、「初臨」と「再臨」の間に生きています。「初臨」の時は、家畜小屋にひっそりと貧しさの中に来られましたが、「再臨」の時は8節にあるように「燃え盛る火の中を来られる」とあります。つまり、栄光を帯びて来られるという輝かしい出来事として来られるのです。イエス・キリストご自身が言いました。「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くといったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える」(ヨハネによる福音書14章1節―3節)、と言われました。行ってあなたがたのために場所を用意したら戻って来る、それが再臨です。
その時になされることは最後の審判です。義なる神様が、最終的に良いものを良しとし、悪いものを悪として罰する時です。8節にあるように、主イエスの福音に聞き従わない者に、罰を与えます。彼らは、イエス・キリストの前から退けられ・・・切り離され・・・永遠の破滅という刑罰を受けるという厳しい裁きです。わたしたちが信仰する主イエス・キリストは、正しいことを行われます。これが神の正義です。
3、終末の希望
この再臨の知らせを、送られたのは、迫害に苦しんでいるテサロニケの人々に対してでした。彼らは救いを求めて、キリストを信じる信仰を持ったと思ったら、それ故に苦しみを受けてしまった。そこで彼らは信仰を捨てたのでしょうか。そうではありませんでした。それどころか3-4節にあるように、テサロニケの人々は、迫害と苦難の中で忍耐と信仰を示していた。信仰が大いに成長し、豊かになっていたのです。
わたしたちキリスト者が信仰を守ろうとする時、サタンの妨害があります。二千年もの教会の歴史を通して、時代を問わず、国や地域を問わずありました。そして、2020年を生きる私たちの生活の中でも、信仰生活を阻もうとするものがあります。今年の教会の主題は「神の愛を実感する交わりづくり」です。交わりを求めて、歩み始めたところでコロナ渦という事態が起こりました。ある牧師がいったのです。「私たちの住むこの世界というものは、川上にあるキリストに逆らって流れる川の流れのようなもの。流れに乗って楽にいこうとすれば、下流に向かって流れていく。川上のキリストに向かって進もうとすれば、一生懸命に漕がねばならない。頑張って漕ぐ必要がある、そこには闘いがある、闘いがあるというのは、それだけ私たちが神から離れているからだ」というのです。闘いや苦難のない信仰生活をしようとすると、私たちは下流に流されます。この世に流されて堕落していきます。イエス様は言いました「あなた方は世で苦難がある。しかし勇気を出しなさい」(ヨハネによる福音書16:33)。わたしたち人間の堕落は、むやみに苦難を避けて楽な方を選ぼうとするところから起こります。川の流れに乗っかって、聖書から離れていく、教会から離れていくようにサタンは働きます。苦難や患難の中で、神を信じていくことはどうすればできるのでしょうか。パウロは主の再臨を信じなければできることではないといいます。10節「かの日、主が来られるとき、主は御自分の聖なる者たちの間であがめられ、また、すべて信じる者たちの間でほめたたえられるのです。それは、あなたがたがわたしたちのもたらした証しを信じたからです」。それは、テサロニケの人々が、パウロたちのもたらした再臨の希望を信じたから、その日、全世界が主の御名を褒めたたえ、彼らも聖なる者として加わることができるのです。イエス・キリストが再び地上に臨まれる時、キリストの前に立つことが赦されている、神の栄光に加わることができる、その信仰だとパウロは言うのです。
4、新しい旅立ちの時
再臨というできごとは、わたしたちが生きているうちに起こるかも知れませんし、死んだ後のことかも知れません。わたしが、まだ幼かった時「人間はいつか死ぬ」ということを知って落ち込んでいたことがあります。ある夏休みに、いとこのいる親戚の家に泊まりに行きました。叔父が、子どもたちを連れてレストランで夕食を食べようといってくれました。当時、わたしの家では、家族そろって外食するということが、ほとんどなかったので、何か特別で贅沢なことのように思いました。食事が運ばれてきて嬉しいどころか、幸せだなと心がいっぱいになっていました。あまりに幸せな思いになったせいか、その頃心の中に引っかかっていた「人間はいつか死ぬ」ということを思い出したのです。人間は誰でもいつか死んでしまう。それが自分の死のことではなくて、母親もいつか死んでいなくなってしまう日が来るのだろうか、と思ってしまったのです。そして、レストランで自分だけ幸せな思いをしていいのだろうか、嬉しくて胸がいっぱいになって泣き出してしまったのです。困ったのは叔父さんだったと思います。なんで泣きだしたのか分からなかったでしょう。人は死んだらなにもない、暗闇のようだと子どもの頃から、教えられるでもなしに、そう思っていました。
私が「母親もいつか死んでいなくなってしまう」と泣いていた、その母は私が25歳の時に病気で亡くなりました。しかし、母は強い信仰をもって天に召されました。母は自分の死のことを「天国への新しい旅立ちの時」と記していました。そこに、死んでいなくなるという思いはありません。死を目の前にしても誰よりも穏やかに、誰に対しても優しく、死の先にも希望があるという信仰に生きていました。
神は正しいことを行われます。苦しめている者には苦しみを、苦しめを受けている者には休息を。正しく報いてくださる神様。神は正しいことを行われます。 お祈りをいたします。