カテゴリー
主日共同の礼拝説教

驚くべき主の恵み

松本 雅弘 牧師
ホセア書11章8-11節
マタイによる福音書26章14-25節
2020年10月4日

1、はじめに

「そのとき、12人の1人でイスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行き、『あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか』と言った。そこで、彼らは銀貨三十枚を支払うことにした。」今日の語り出しです。すでにこの時、主イエスご自身と祭司長たちの双方が十字架の時期についてそれぞれ違ったことを考えていました。そして今日の箇所では、さらにもう一人、主イエスの十字架への道行きに決定的な役割を果たした人物が登場する。それが、「12弟子のひとりのイスカリオテのユダ」でした。マタイは、他でもない主イエスの12弟子のひとりのイスカリオテのユダが敵の手に主イエスを引き渡した。それもお金で売ることを、ユダの側から持ちかけたという衝撃的な事実を私たちに伝えています。

2、あらすじ

ユダが訪ねていった相手は祭司長たちでした。ユダが持ちかけてきた話は祭司長たちにとっては正に「渡りに舟」、混乱を起こさず、いや最小限に抑えたうえで、イエスを逮捕できる最高の提案でした。しかも「あの男をあなたたちに引きわたせば、幾ら貰えますか」と報償金の額の交渉まで持ちかけ、ユダの本気具合が伝わったと思います。
ところで、主イエスの「12弟子」は主が選んだ者たちです。ルカ福音書によれば徹夜の祈りをもって使徒となるべき12人をお選びになりました。そう考えると、ユダがイエスを裏切ったわけですから、そのユダを選んだ主イエスの選び方に責任はなかったのでしょうか。
しかも同じ12弟子の選びの箇所、マルコ福音書3章14節によれば、選びの目的が宣教に派遣することに加え、「彼らを自分のそばに置くため」だと書かれています。「彼らを自分のそばに置く」とは、主イエスが弟子を訓練するときに用いられた訓練方法です。そのように育てた弟子たちの中から、イスカリオテのユダのような弟子が出てしまったということは、主イエスの弟子訓練に問題があったともとられかねないわけです。

さらに私たちが混乱させられるのは23節からのやり取りにある主イエスの発言です。ユダを弟子にした主イエスの口から「生れなかった方が、その者のためによかった」という言葉が飛び出した。これは取り方によっては、とても悲しく、淋しい思いにさせる言葉なのではないでしょうか。

3、ユダのことについて

少しユダのことを考えてみたいと思うのです。この過ぎ越しの食事の席にユダがいたという背景には、主イエスを来るべきメシアとして心に迎えていたからでしょう。でも、主イエスと寝食を共にしながら、どこか違和感を覚えるのです。ユダ自身が描くメシア像と実際の主イエスとの間にズレが見えてきた。ここまで全てを投げうって主イエスについて来たのです。ユダにしれみれば、自分が裏切る前に、主イエスに裏切られた。そうした思いが募り、期待が恨みに変わり憎しみとなって行ったのではないかとも想像できます。

「あなたがたのうちの1人がわたしを裏切ろうとしている」という主の言葉を聞き、弟子たちは非常に心を痛め、「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めます。つまりユダだけではありません。他の弟子たちの心の内側にもユダと同じような主イエスに対する「がっかり感」があったのではないかと思うのです。勿論、ペトロのように「いや、自分だけは大丈夫」と思ったとしても誰もが経験済みですが、自分の努力や確信の強さなどはいかにあやふやで疑わしいものか。実際、ペトロ自身がそのことを証明して見せてくれました。他の弟子たちもみんな同じでした。主イエスが逮捕されるや否や、蜘蛛の子を散らすようにして主イエスを捨てて逃げてしまった。ですから弟子たちは誰一人として主イエスを裏切らないという確信を持つことが出来ていなかった。ユダも含め12弟子全てが、五十歩百歩なのです。そう考えますと、人が神さまに赦されるということは、まさに一方的な恵みの出来事であることを、改めて知らされる思いがするのです。

4、驚くばかりの主の恵み

これまで礼拝ごとにマタイ福音書を読み進めてきました。主イエスがお語りになった神の国の福音は、無条件の愛、無条件の赦しです。当時のユダヤ社会では、罪人が無条件で赦されるはずなどあり得なかった。いや、当時のユダヤ社会だけではなく、現代もそうでしょう。それが常識です。ところが、主イエスは繰り返し、「そうではない!神の赦しは無条件、無条件の愛なのだ」とおっしゃり続けるのです。私は、神の赦しを考えると心に浮かぶ主イエスの教えがあります。マタイ福音書18章に出てくる1万タラントンの借金を主人から免除されたにもかかわらず、たった百デナリオン、労働者百日分の賃金に当たる借金をしていた仲間の家来を赦すことが出来なかった、という譬え話です。普通は、「7回の70倍赦しなさい」、言い換えれば「何度でも赦してやりなさい」と言われたら、「そんなことしたら、神の義が立たないじゃないか!その人をダメにしてしまう!」と考える。ところが、あたかも神の側に立つようにして、そう反論する私たちに向かって、「実はあなたこそ巨額の借金を帳消しにされている存在なのですよ。そのように赦されていながらどうして百万円の借金を赦せないのですか。徹底的に赦されているのは実はあなた自身ではないか。そんなにまでも赦されているのに、“無条件に赦したら、赦された方はダメになる”などとまるで他人事のように心配するのですか」、そう言われるのです。

再びマタイ26章に戻りますが、この時すでに祭司長たちとの取引は成立していました。残っていたのは実際にイエスの身柄の引き渡しだけです。主イエスはユダが成した全てを、十分ご存じの上で、過ぎ越しの食事にユダを招かれた。そして弟子たち一人ひとりの足を洗うと共にユダの足をも洗われた。最後までユダは12弟子の1人だったのです。

私は説教の準備をしながら、葬礼拝の式文の中にある祈りの言葉が心に浮かびました。今まで様々な方たちの葬礼拝をさせていただきました。最後まで礼拝を大切にし、召されていった方もいれば、洗礼を受けたのですが礼拝から離れていった方。とっても長く求道生活をしながら、ニコデモのように、最後の最後まで洗礼に至らなかった方。もう人様々です。そして葬礼拝の前にご家族が書いた生前のエピソード等、そしてまた時間の限り教会に残された資料を読み返しながら、葬礼拝の説教の準備をいたします。そして当日、開式直後に毎回祈る祈りの言葉に、このようなくだりがあります。「神さま。あなたは独り子、主イエス・キリストの死によって私たちの死を滅ぼし、そのよみがえりによって私たちに命を与え、復活の希望を与えてくださいました。主イエスは十字架の上で、『わたしを思い出してください』と言う者に、『あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』と言われました。今、私たちの目を開き、あなたがキリストの死をもって備えられた、天の住処を仰ぎ見させてください。」

主イエスが、共に磔にされている囚人に向かって、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と宣言された直前、福音書によれば、十字架の上の主イエスが苦しみながら、私たちのために父なる神さまに執り成してくださった。その祈りが、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」という祈りなのです。
私は、そこに本当に平安をいただきます。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」十字架の上で両手を広げて祈られた、その主イエスの大きな赦しの中に、召されたその方、いつか召されるこの者をも、大きく広げた、そのお方の赦しの御腕の中に委ねることが出来る。
勿論、現実の社会において、蒔いた種の刈り取りを求められ、場合によっては生涯、やってしまったことの責任を果たすように迫られることもあるでしょう。しかし私たちは、究極的に主の赦しの愛の中におかれている。その無条件の愛、赦しの中に、今、この時も生かされている。だからこそ、私たちは生命をかけて赦しを与えてくださった方が悲しまれるようなことはしない、むしろこの驚くばかりの恵みに与った者として、もっと積極的に、そのお方が喜ぶ生き方、赦され、愛された者としての道を選び取って生きていくのです。お祈りします。