松本 雅弘 牧師
詩編27編1-14節
マタイによる福音書26章26-35節
2020年10月11日
1、過越祭
「イエスはこれらの言葉をすべて語り終えると、弟子たちに言われた。『あなたがたも知っているとおり、二日後は過越祭である。人の子は、十字架につけられるために引き渡される。』」(26:1-2)マタイ福音書26章の最初に出てくる主イエスの言葉です。主イエスの十字架は過越祭の時に起こった出来事だったわけです。
過越祭については出エジプト記12章に詳しく述べられています。イスラエルの民は、かつてエジプトにおいて奴隷でした。差別や迫害、奴隷としての過酷な暮らしの中、彼らは自分たちの父祖の神、神さまに叫びをあげました。そうした彼らイスラエルの叫びを神は聞き、モーセという解放者をお立てになり、様々な仕方でエジプト王ファラオにイスラエルの民の解放を迫ります。ところが、いつまで経ってもファラオは民の解放に応じようとしないのです。ついに神は、最後の計画の実行をモーセに告げます。それは、ある夜、神が、全てのエジプト人の家の長男や動物の家畜の初子を殺すというものでした。ただし、イスラエルの民に対しては事前に災いから逃れる道を伝えたのです。それは小羊を屠りその血を家の入口の柱と鴨居に塗るというものでした。その結果、血が塗られている家は小羊の犠牲に免じて災いが「過ぎ越し」た。そうしなかったファラオから奴隷の家に至るまで、ことごとく長男が犠牲となり家畜の初子が死んでしまった。その大混乱に乗じイスラエルの民はエジプトを脱出する。それが出エジプトでした。それ以来毎年イスラエルの民は過越祭を祝い、神の救済の出来事が自分たちに示された神の恵みの原点だとして子々孫々に伝えていたわけです。
この時、主イエスと12弟子たちは、まさにその過越の食事を祝うために集まっていたのです。さらに説教の冒頭で読みましたが、主イエスは、この歴史的な意味を持つ過越祭の時に、自分は十字架にかかり死ぬのだと、心に決め、明言しておられたということなのです。
2、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」
そうした背景で祝われたのが、この時、主イエスと弟子たちが囲んだ過越の食卓でした。「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。『取って食べなさい。これはわたしの体である。』また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。『皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。』」
これは、私たちにとっては聞き慣れた文言、聖餐式の時に牧師が読み上げる聖書の一節です。これこそ主イエスが聖餐を制定された時の言葉なのです。
現在、コロナ禍で聖餐式が中止となっているわけですが、通常の聖餐式では、この制定の言葉だけが読まれます。改めて今日の聖書箇所を味わうとき、まさにこの言葉は、弟子たちとの過越の食事の最中にお語りになった言葉であることが分かります。
この時、主イエスは、過越の食卓を囲みながら愛する弟子たちと一緒に、過去一度限り起こった大救出劇、出エジプトの出来事の恵みを味わうように導かれたのです。しかし、それだけではなく出エジプトを想起する過越の食卓を囲みながら、その食事に新しい意味をお加えになった。イスラエルの民の「過越」をはるかに超えて、主イエスはイスラエルの民に限らず、全ての民、全ての人々が、神さまの大いなる恵みを確認する、新しい主の食卓を用意してくださった。その恵みの食卓を制定してくださった。それが聖餐式なのです。
主イエスは、この過越の食事の夜、弟子たちを前にして、「パンを取り」「賛美の祈り」を捧げ、それを「裂き」弟子たちに与えながらおっしゃった。「取って食べなさい。これはわたしの体である」と。十字架を目前に主イエスはこの時、間違いなく十字架の上で裂かれていくご自身の体のことを考えておられた。ですから、これは命を捧げることを覚悟して語った言葉です。私たちの教会の聖餐式では、すでに綺麗に切り整えられたパンが配られますが、もっと少人数の例えば中会会議の礼拝などでは、一つのパンを司式の牧師が会衆の目の前に高く掲げ、そのパンを、みんなが見ている前で裂くのです。ちょうど主イエスが、みなの目の前で十字架にかかり、肉体を裂かれて行かれた。ちょうどそのようにです。次に杯です。この杯も弟子たちの前に高く掲げ、「これは多くの人のために流される、契約の血です」と言って分かち合われた。この時、主イエスが「取って食べなさい。これはわたしの体である」と言われ、そして、ぶどう酒の入った杯を取って、「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」とおっしゃった、そのパンとぶどう酒が指し示す、神の小羊の裂かれた体、流された血潮を想起するのです。神の小羊の犠牲によって神の裁きが私たちの上を過ぎ越した恵みを味わうのです。
3、ペトロの離反
さて、この後、私たちの聖書には「ペトロの離反」という小見出しのついた物語が続きます。主イエスが弟子たちの躓きを予告すると、ペトロが「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません。」と言います。これに対して主イエスは、「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」と予告する。するとペトロは、たぶんもっと力を込めて、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と断言します。でも数時間もしないうちに彼の決心は崩れ去っていく。そしてペトロだけではありません。「同じように言った」他の弟子たちもみな、躓いていきました。どのような強い人間的な確信も、「決して」とか「絶対に」とかいう言葉によっては決して確かにされるものではない。私たちが神さまに赦されるということは、私の側の頑張りや強さによらず、まさに一方的な恵み、神の憐れみによることを、改めて知らされる思いがするのです。
4、主イエスの約束に支えられて
ところで、この場面、主イエスの受難週の場面です。十字架の前夜の出来事です。弟子たちの口からは気負いや強がり、精一杯の言葉が飛び交う最中です。まさに闇が覆っているようなときです。でも聖書を丁寧に読み進めていく時、そこは決して真っ暗ではない。希望の光が洩れ注いでいることに気づかされるのではないでしょうか。その一つが29節にある、主イエスの不思議な言葉です。「言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」
よく言われることです。後に、この食事をレオナルド・ダヴィンチは「最後の晩餐」と名付けた絵にしました。ここで主イエスは「これが最後です」と明らかにおっしゃっている。でもさらに味わっていくと、「言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲む。そうした日が来る。これが最後の最後ではないのだ」とはっきりと聞こえてくるのです。
今、この地上で、聖餐にあずかるということは、「わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日」に行われる天の食卓に連なる招待状をいただいていることの目に見えるしるしなのです。
確かに主イエスは弟子たちの躓きを予告されました。でも同時に「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」と約束を語っておられる。これは耳に入っていなかったのではないでしょうか。躓いてお終いではない。その先がある。「復活がある。その復活の後がある。あなたがたより先にガリラヤへ行っているから、そこで会おう」。このような暗闇が覆うような現実にあって、人生の新しいステージに、主は先回りして、待っていてくださる。強がりを言うペトロに対して主イエスは、先回りしておっしゃるのです。「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:32)私たちのガリラヤで主は待っておられる。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮される」(Ⅱコリント12:9)。この恵みの力に支えられ、弱さを超えて、いや弱さを通して働いてくださる、キリスト・イエスに信頼して歩んでいきたいと願います。お祈りします。