松本 雅弘 牧師
イザヤ書42章1-10節、マタイによる福音書26章36-46節
2020年10月18日
Ⅰ.ゲッセマネの祈り
最後の晩餐の後、主イエスはゲッセマネに向かわれました。弟子の中から特別にペトロおよびゼベダイの子2人、ヤコブとヨハネの兄弟です。その3人だけを連れて園の奥に進んで行かれたのです。それは祈りのためでした。マタイはその所で主イエスは悲しみもだえ始め弟子たちに向かって「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい」とおっしゃったと伝えています。
ところで主イエスは以前も彼ら3人だけを連れて山に登られたことがありました。そこで主イエスの姿が変わり、「神の子」の栄光の姿になったことがありました。ところが、ゲッセマネでの姿はあの時とは対照的なのです。恐怖におびえ弱さをさらけ出している。あの時のお姿が栄光に満ちた「神の子」イエスの姿であったならば、ゲッセマネでのお姿は「人の子」イエスのお姿でした。でも弱さを備えた「人の子」としての側面こそ、私たちにとって大きな慰めとなってくれるのではないでしょうか。何故なら主イエスが人間としての恐れや不安、悩みを、自らも味わっておられたからこそ、私たちが日々経験する様々な怖れや困難を分かってくださり、共に苦しみ悲しんでくださると信じることができる。まさにヘブライ書にあるように、「わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」(ヘブライ4:15)そういうお方ということでしょう。
Ⅱ.歴史上、最も重大な夜
聖書の中の聖書と呼ばれるヨハネ3章16節に「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」とありますが、まさに私たちを滅びから救うために、神の子イエス・キリストが十字架にかけられ殺される。それが避けられないものとして、この夜、このゲッセマネの園において最終的に確認された。人類の歴史を決定するとてつもなく重大なことが、天の父なる神とイエス・キリストの間で語り交わされて
いたと考えられるのではないでしょうか。
私事で恐縮ですが1月に初めての孫が与えられました。その子が生まれて3月経ったころ、物凄い高熱が続き病院に搬送され、そのまま入院したのです。普段でしたら、乳児の入院ですから母親も一緒です。でもコロナのことがあり、母親は泊まることも出来ない。面会も許されません。我が子がどうなっているのか、きっと心配しているだろうから、と看護師さんが気を利かして赤ん坊の様子を写メに撮って送ってくれた。哺乳瓶からミルクを貰っている様子。あてがわれた玩具で遊んでいる様子。そしてその傍らに看護師さんがいる。でもその看護師さんは青い防護服に身を包んでいるのです。家にいる時は、泣けば母親や父親がすぐに飛んできて抱き上げたり、あやしたり、おむつを替え、ミルクを飲ませて貰えた。でも病院では他の患者さんがいますから、すぐには対応して貰えなかったに違いない。その内、泣き疲れて眠ってしまう。どんなに淋しかったか、どんなに辛かったか。想像するだけで、もう胸が熱くなりました。ただ孫の場合は、元気になって退院できたのですが、報道によるとコロナ禍で病院で亡くなる方たちは、最後、お別れもできなかったとお聞きします。ご本人もご家族も、本当に大変な経験をされたのだと思うのです。
この時、「わたしは死ぬばかりに悲しい」と告白し、頼りになりそうもない弟子たちに向かって、「どうか、私のために、ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていて欲しい」と訴える我が子イエスの姿をご覧になった父なる神さまはどうお感じになったかと思います。すぐにでも走り寄って抱きしめてやりたかった。そうしましたら今度、その子が自分に向かって訴えてくるのです。「お父さん、どうぞできることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」この時、父なる神にとっても、苦しみ悶えるほどの闘いだったと思うのです。我が子イエスを「世の罪を取り除く小羊」として十字架に掛けなければならない。親子の親しい愛の交わりが断絶し、神不在の地獄に落ちていく我が子を見殺しにしなければならないのは、はらわたのちぎれるような決心であったことだと思います。でも、私たち人類を救うにはこれしかなかった。父なる神さまは、そう決断された。私たちの神は愛のお方です。そして全能の神さまであられます。そのお方が、愛を尽くし、思いとお考えを尽くして選び取られた道、それが十字架の御子の死をもって私たちを生かすための道、唯一の道だったわけです。
Ⅲ.祈りの日常性
さて、今日の箇所は私たちに祈りとは何かを改めて教えているように思います。同じ出来事を記したルカ福音書を読みましたら、興味深い記述があるのに気づかされます。「イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。いつもの場所に来ると、…」と。「いつものように」、「いつもの場所」という言葉が出て来るのです。たぶん、主イエスは過越の祭でエルサレムを訪れる度ごとに、このゲッセマネの園でいつものように祈っていた。そう考えますと、確かに福音書にはいつもひとりで祈る主イエスのお姿が出て来ます。そうした上で、もう一度、今日の箇所に戻り44節を見ますと、「三度も同じ言葉で祈られた」と書かれてあります。三度、「同じ言葉」で祈られた。その祈りの言葉が、39節、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」そして42節、「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」「御心のままに」、「御心が行われますように」、御心を求める祈りです。そうです。これは弟子たちにお教えになった、あの「主の祈り」の言葉であることに気づかされます。
これまで主イエスは、常に人に囲まれて生活しておられました。人々の願いやニーズを肌で感じて暮らしてきました。ですからご自分でも彼らのためにやりたいことがおありだったと思います。しかしそうした中、主イエスが求めたのは、父なる神が願っておられること、すなわち、「御心」です。それを求めるために祈ってやって来られた。
祈りとは、神さまを操作し、私にとって好ましい結果を引き出すための手段ではないのです。祈りとは神との会話、神さまと交わりです。祈りの中で神さまの御考え、ご計画、そのお方の願いに触れる。考えてみれば、全知全能のお方のお考えが最終的には一番素晴らしいわけですから、その方の御心を求める祈りを、最終的には私自身がさせていただくように私が変えられていく。それが祈りの体験だと思うのです。
Ⅳ.主イエスに倣い、委ね任せること
ここまでマタイ福音書を読んで来て気づかされるのは、もうすでに主イエスは十字架が神のご計画であることを知っておられた。それが御心だと知っておられた。その証拠に、繰り返し十字架のことを弟子たちに語っておられたのです。でも主イエスの祈りの姿を通して、「御心を知っていること」と「その御心に明け渡すこと」とは別問題だと教えられます。
この時、主イエスは父の御心が何であるかを知っていました。しかし十字架を前に恐れに満たされた。「御心のようになりますように」と祈る前に、「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい」と素直に心の中にある恐れを口に出して祈っておられます。御自分の弱さを包み隠さず祈った上、最後の最後に、「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と全てを神に委ねていかれた。
どのようにして委ねることができたのでしょう?「いつものように」「いつもの場所」での祈りを積み重ねる中で、父なる神というお方が、どういうお方であるかが本当に分かって来る。日々、そのお方と共に歩む中で、神さまは善いお方であることを知ります。そのお方は、この者を決して見捨てるようなことはなさらない。必ず助け守り導いてくださる。それを経験的に知らされていくからです。全知全能の愛の神が、深く心にかけ心配してくださったのなら、必要な時に必ず事を動かしてくださる。私たちは祈りを通し、この神さまの御心に触れ、御心に委ねて歩んで行きたいと願います。お祈りいたします。