松本雅弘牧師
ペトロの手紙一5章6節
使徒言行録24章22-27節
2020年11月15日
Ⅰ.コロナ禍がもたらした諸活動の停止
2020年がスタートして間もなく世界的なパンデミックに襲われました。緊急事態宣言が発出され社会生活は広範囲で停止、もしくは動いていてもペースダウンを余儀なくされました。教会も例外ではありません。全ての活動はいったんストップし、急遽、主日共同の礼拝、教会学校の礼拝は動画配信となり、現在も礼拝は限定的で動画礼拝が中心です。以前のような日常を取り戻せてはいませんし今後も難しいのではないかと思われます。
今日は、来年の主題と主題聖句の説教ということですが、主題は説教のタイトル「神の御前に自分を低くする」、そして主題聖句は第Ⅰペトロ5章6節です。
2021年は、コロナ禍が続く中にあって、一度立ち止まって神さまのみ前に心を静め、神さまというお方がどのようなお方なのか、私たちの教会、私たち自身のあるべき姿はどのようなものなのかを、思い巡らす1年とさせていただきたいと考えております。
今日は使徒言行録24章の御言葉から、宣教活動のストップを強いられ、神さまの前に静まる時を持つように導かれた、パウロの姿からご一緒に教えられたいと願っています。
Ⅱ.カイサリアでの2年間の意味
今日の聖書箇所には、パウロは宣教活動の最中、カイサリアで2年間足止めされ無意味な「足止め」を食わされているような印象を受けますが、使徒言行録を記したルカは、全く異なる視点、すなわち神さまの視点に立ってこの出来事を見るように励ましています。
そうした視点に立つとき、カイサリアでの2年間は、実はこの後、恵みの実りにつながっていく上で、なくてはならない特別な時であったことを教えられます。神さまがパウロを通して宣教の働きを進めるために、1つひとつの出来事を周到に準備してくださり、そうした神さまが備えられた特別な環境のもとパウロを訓練し、この後続く宣教活動の新しいステージを導く働き人として特別な備えをさせておられたことに気づかされるからです。
ところで、残念なことに、私たちは、後になって気が付くことが多い。そのため神さまが準備をなさっている、そうした意味で働いておられるにもかかわらず、「何で神さまは働いてくださらないのか」「神さまはなぜ沈黙なさるのか」と思ってしまう。祈っても祈りが聞かれず不安になり、祈りが聞かれないので不満が募り、神に対する信頼が試されるようなことが起こります。この時のパウロもそうでした。しかし、実際には、そうした中にあっても、神さまは、決して働いておられないのではありません。ご支配しておられないのでもないのです。ただ、私たちの視界に、神さまのお働きが見えていないだけなのではないでしょうか。
改めて私は、聖書が教える神さまの働かれるパターンのことを考えました。神さまの働かれ方、一言でいえば「人」です。聖霊は人に宿るのであって、物に取り付くのではありません。人を通して働かれる。ですから大事なことは私たちが神の器とされていくことです。
今年、2020年を振り返って、私たちの歩みはどうだったでしょうか。私たちは、Ⅰヨハネ4章19節の主題聖句を掲げ、「神の愛を実感する交わりづくり」をテーマに歩み始めようとした矢先に、コロナ禍に襲われました。交わりはおろか、礼拝堂での礼拝は中止となり、急きょ無会衆で慣れない動画の収録を始めました。計画したことが全くできなかった1年であり、あと1か月余りで終わろうとしています。そしてこれは教会の活動だけではありません。全世界を巻き込むパンデミックですから、コロナ禍のために目の前に見える風景が一変してしまいました。職を失う人、人間関係で行き詰まりを経験する人、人生設計が全くと言っていいほど変わってしまった人。そのような意味では予期せぬ出来事が多く起こった年ともいえるでしょう。仮に今年の高座教会の歩みを成果主義的な物差しで評価していくとすれば、今年は空白の1年、無駄であり無益としか思えないかもしれません。しかし、見方を変えて神さまの視点に立つならば、全く違った景色が見えてくるように思うのです。
パウロの生涯におけるカイサリアでのこの2年間、あるいは初代教会の宣教活動という広い視野に立って見た時の、カイサリアでの2年間は、まさにパウロにとっては霊性が研ぎ澄まされる2年間であり、このあと展開する宣教の新たなステージに向けての構想を練り、そのための祈りの備えが出来た実に重要な期間だったのではなかったでしょうか。パウロは家庭を持っていないがゆえに何の制約もなく当時のローマ社会を行き来できました。そうしたパウロに神はカイサリアの牢屋での2年間を与え、比較的自由に人々が行き来でき、なおかつ神のみ前に静まる時が与えられた。正に神さまのくださった特別な恵みの時だったと言えるのです。そしてこの後、カイサリアでの2年間があったからこそ、宣教の次のステージ、すなわちローマ帝国における下準備がなされていったのではないかと思うのです。
歴代誌に有名な御言葉があります。「主は世界中至るところを見渡され、御自分と心を一つにする者を力づけようとしておられる。」(歴代誌下16:9)神さまは神の器を探しておられます。そして見つけたらその人を力づけたいと願っておられる。ですから私たちの責任は、神の御心を求めることでしょう。パウロにとってのカイサリアでの2年間は、実にそのような恵みの時だったのです。
Ⅲ.フェリクスへの伝道を通して教えられること
もう1つ、ここで注目したいのはパウロの伝道に対するフェリクスの反応です。フェリクスはパウロの個人伝道により、ある程度のところまで導かれていきました。ところが、最後のところで心を開かなかったのです。このことを通して信仰について大切なことを教えられるように思うのです。それは信仰とは1つ示されたことを大切にし、その示された1つのことに、きちっと応答していくということです。ところがここでフェリクスは、「今回は、これで帰ってよろしい。また適当な機会に呼び出すことにする」と語ったのです。
信仰において危険なことは、この先延ばしをすることです。神さまに示されているにもかかわらず、それを先延ばしにする結果、何が起こるか。霊的に鈍感になっていくのです。神さまの導きを受けることが難しくなってくる。礼拝のことよりも会社から持ち帰った仕事を済ませる方が重要に思えてくる。御前に静まることよりも、何かをするために動き回ることの方が大事に思えてくる。先週もお話しましたが、その結果、睡眠が削られ、心に不安や思い煩いが増すばかりです。
神さまの働きによって、1つのことを示された時に、それに誠実に応答し、そしてその1つの御言葉を本当に大事にし、自分のものとしていく人を、神さまは求めておられる。私たちの神さまは、「主は世界中至るところを見渡され、御自分と心を一つにする者を力づけようとしておられる」お方だからです。
Ⅳ.まとめ
以上、この短い個所からご一緒に学んでまいりました。パウロは2年間、カイサリアで過ごしました。それを神が備えてくださった大切な時として受けとめることも出来ますし逆に無駄で実りのない時、神も沈黙しておられると結論付けることも可能でしょう。しかし、来年の主題聖句にありますが、まず「神の力強い御手の下で自分を低く」する。私たちが神の前に静まる時に、神は実は沈黙されているのではなく、今も確実に生きて働いておられる。
説教の準備をしながら「ドミノ倒し」の風景が心に浮かびました。ドミノ倒しは何人もの人が長い時間かけ、ドミノを1つひとつ並べる必要があります。そして時が来た時に、たった1つのドミノを倒す。するとあっという間に、全てのドミノが関係しあって波紋が広がり、次々と素晴らしい絵柄を描いていく。そして、一つの素晴らしい思いもかけなかった絵柄が完成するのです。
神さまが私たちを整える時、遅々として時間が進まないような経験をします。ある問題が解決し、実を結ぶまでに何年もかかるように思います。でも神さまが私たちにとって最善であると定めた「その時/神の時/カイロス」に、見事な恵みの風景を、私たちの社会に、教会に描いでくださるのではないでしょうか。そのために、私たち自身が神さまのみ前に信仰を深め、神のみ前に自らを低くし、御心を求める年とさせていただきたいと願います。
お祈りいたします。