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主日共同の礼拝説教

いつものように―使徒信条①

松本雅弘牧師
申命記6章4―12節、ルカ福音書22章39-46節
2021年1月3日

Ⅰ.使徒信条を学びます

新年、あけましておめでとうございます。今年、礼拝で、使徒信条についてご一緒に学ぶことになりました。当たり前のことですが、使徒信条は聖書に記されている文書ではありません。しかし、使徒信条を形作る言葉は、聖書のあちらこちらに出てくるわけです。

Ⅱ.使徒信条とは何か

そもそも、信条、信仰告白とは何か、という問題があります。カンバーランド長老教会の信仰告白の解説で書かせていただきましたので、お時間のある方は、そちらを読んでいただければと思いますが、その中でも、信仰告白とは、「今の時代に生きる私たちクリスチャンが、そして契約共同体が直面する様々な課題を真摯に受けとめ、『神さま、なぜですか』と問いたくなるような現実に直面し、その問いをもって聖書を通して神に聴いたものを、信仰告白という形式でまとめたのです」と書かせていただきました。つまり、聖書が語る神に対する信仰、神がしてくださった救い、聖書が証言する救いの業を要約したのが使徒信条であり、そうした意味で、使徒信条は聖書の信仰の要約、エッセンスなのです。
その歴史的起源については諸説があります。たぶん紀元2世紀頃にその原型が生まれたのではないか。またそうした文書が生み出された理由としては、洗礼志願者の洗礼に向けての準備のために必要となって書かれたのではないか、と言われています。
高座教会でもそうですが、洗礼の受けるための準備の学び会、「洗礼入会準備会」というものを行っています。そこで学びをされた方たちは、小会の面接において、その人がどのような信仰を言い表すのかが問われます。言い換えれば、教会に与えられ、教会が語り継いできた聖書の信仰を受け入れているかどうかが問われてくるわけです。当たり前のことですが、教会に属するといっても、一人ひとりがバラバラな理解をしていたら困りますから。例えば、ペトロの手紙第2の1章1節にこのような御言葉があります。「イエス・キリストの僕であり、使徒であるシメオン・ペトロから、わたしたちの神と救い主イエス・キリストの義によって、わたしたちと同じ尊い信仰を受けた人たちへ。」これは使徒信条を学ぶ上で大切な聖句だと思われます。ここで使徒ペトロは、「わたしたちと同じ尊い信仰を受けた人たちへ」と語っています。「わたしたち」とは、この手紙を書いている使徒ペトロたちのことです。その使徒ペトロたちと同じ尊い値打ちのある信仰を与えられている人たちに向かって手紙が送られているわけですが、まさに、ペトロたちと同じ信仰を受けた人たちによって信仰共同体なる教会が形成されている。その信仰共同体なる教会の中で共有されている同じ信仰を、短く、適切に表現したのが、これからご一緒に学ぼうとしている使徒信条なのです。
ところで、使徒信条のことを学ぶ中で、改めて教えられたことがあります。それは、歴史の教会は、この使徒信条と共に、十戒、そして主の祈りの3つの文章を大切にしてきたという事実です。確かに高座教会でも、使徒信条と主の祈りは、ほぼ毎週の礼拝の中で唱えられ、祈られてきた歴史があります。この3つの文章、これから学ぶ使徒信条は、私たちは何を信じているのか、をまとめたものであるならば、十戒とは、そのように信じている者たちはどのように生きるのかを示したものであり、そして3つ目の主の祈りは、何をどのように祈るのかをまとめたものであるといえます。
4月からスタッフとして働いてくださっている北村卓也兄の母教会である、世田谷中央教会では、何を信じ、どのように生き、また何を祈るのか、信じること、生きること、祈ることを示した、この3つを毎週の週報に必ず印刷して配布するそうです。配布するだけではなく、毎週の礼拝の中で必ず告白し、唱え、祈ることをしている教会もあります。そのような意味のある使徒信条を御一緒に学ぶことを通して、特に礼拝の中で告白する際に、その内容を一つひとつ理解しつつ、神さまから頂いた様々な恵みに対する私たちの応答として、心から使徒信条をもって、神への信仰を告白する者、そうした教会として、整えられていきたいと願っています。

Ⅲ.いつものように

さて、そうした上で、今日取り上げたルカ福音書にはゲッセマネの園での祈りの場面が記されています。昨年、同じゲッセマネの園での主イエスの祈りの格闘を記したマタイ福音書の記事を御一緒に学みました。その時の説教題を「歴史上、最も重大な夜」としました。聖書の中の聖書と呼ばれる、ヨハネ福音書3章16節に、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」とありますが、まさに私たち人類を滅びから救うために、神の子イエス・キリストが十字架にかけられ殺される。それが避けられないものとして、この夜、主イエスは、ゲッセマネの園において最終的に確認された。この夜、人類の歴史を決定するとてつもなく重大なことが、天の父なる神とイエス・キリストの間で語り交わされていたと考えられる。ですから説教題を「歴史上、最も重大な夜」としました。そのような意味で、ゲッセマネの祈りは歴史上、ただ一度限りの祈り、特別な祈りでした。ある人の言葉を使えば、他の誰もが繰り返すことのできないし許されない祈りです。ところが、その特別な祈りを、ここでルカは、主イエスの日常的習慣を強調するように、敢えて、「いつものように」、「いつもの場所」で祈ったのだ、と伝えています。マタイ福音書の説教でもお話しましたが、マタイは「三度も同じ言葉で祈られた」と書き、その祈りの言葉は「主の祈り」を連想させ、たぶんその祈りはいつも主イエスが祈っていた「主の祈り」だったのではないかと思われるのです。
ところで、アドベント第3主日の礼拝で、「強いられた恩寵」があり、そして全ての信徒、クリスチャンに与えられている「強いられた恩寵」は「礼拝を守る」という務めなのではないか、ということをお話させていただきました。今まで、毎週、礼拝に集っておられた方々、あるいは定期的に礼拝に出世された方たちの礼拝生活のリズムは大丈夫だろうか、と心配になることがあります。私が神学生の時に、後に日本聖書神学校の先生が、神学生として奉仕しておられました。その先生が「信仰生活は坂道を上がっていくようなものだ」と語ったことを覚えています。前に進まなければ、必ず後ろにずるずると後退する、というのです。使徒ペトロは、「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています」と語っていますが、そのことこそが、神学生の言う「坂道に立っている」状態を指すのだと思うのです。今日の聖書の箇所に戻りますが、ゲッセマネの祈りがささげられたのは、十字架の前の晩です。特別で特殊な時でした。ところが主イエスはいつものようにオリーブ山に行かれたのです。いつも習慣で祈るために行かれたのです。

Ⅳ.使徒信条を口癖に

ところで、礼拝がオンラインになった時、式次第を簡素化しました。頭で色々と考え、流れを抑えながら、最初のプログラムを考えました。そしてしばらくそれでやって来ました。ところが、ある時、教会員の方から、「使徒信条がないのはおかしいのではないか」、「使徒信条を入れて欲しい」という要望が教会員の方から上がって来ました。それは素晴らしいことだと思いました。ある牧師が語っていましたが、毎週、礼拝を捧げていても、いつでも恵まれるわけではないかもしれない。でも礼拝を捧げる癖をつけてしまうこと。聖書を読み、祈りを捧げる習慣を身に付けてしまうこと。そのような信仰の生き方の癖が生まれてくる。そうしたことが習慣になってくる。その一つとして使徒信条を身に付けてしまう。口癖にしてしまう。ふと気づいた時に、礼拝で唱えた使徒信条が口をついて出てくる。その言葉によって自分の信仰が養われるからだ、といのです。
主イエスが教え、示してくださった「いつものように」ということ、ギリシャ語でエートス、習慣という言葉ですが、そうした聖なる習慣を身に付けることが、実は、私たちを守ることとなる。それが私たちの基準になり、神さまがそれを用いて、私たちを守ってくださる。特にコロナ禍にあって、やり方の変更が求められる時に、「変わることのないもの」、守り続けるべき大切なものとして使徒信条が与えられていることを覚えつつ、今年も共に歩んでまいりたいと願います。お祈りします。