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主日共同の礼拝説教

私は信じます―使徒信条②

松本雅弘牧師
詩編89編1-19節、ローマの信徒への手紙10章1-13節
2021年1月10日

Ⅰ.信条が生み出される背景

先週、教会員の皆さんのところに緊急メールでのメッセージ、そしてHPでもお知らせを掲載させていただきました。1月8日から礼拝、諸集会をしばらく休止すること、礼拝堂、教会諸施設の利用、貸し出しを中止する旨のご連絡でした。改めて私たちは真空状態の中に生きているのではなく、日々、様々な問題に直面していきていることを考えさせられるのです。
今回のコロナ禍でも、「神さま、なぜ?」とか「神さま、コロナ禍を通して何を?」と問いながら過ごしてきました。そうした問いをもって聖書に向かう。すると神さまは聖書を通して、何等かのメッセージを語りかけてくださる。実は、二千年の間、歴史の教会はそのように歩んできました。その時代の問いかけに真摯に向き合い、聖書を通して神に聴いたものを文書としてまとめてきた。それが教会の生み出してきた信条であり信仰告白です。では一方そもそも使徒信条はどのような訳があってまとめあげられたのか。先週の復習になりますが、それは洗礼志願者の準備のためでした。当然ですが洗礼を受け教会に属するに際し、一人ひとりがバラバラな理解をしていたら困るわけです。そうした際に洗礼を認めるか否かの基準となるものを、という必要性があって使徒信条はまとめられていきました。ですから聖書の中に出てくる文書ではありません。でも聖書の言葉が使われていますし、その中心的な教え、聖書のエッセンスが短く簡潔な言葉でまとめられている。それが、この使徒信条なのです。

Ⅱ.なぜ「わたしたちは信じます」ではないのか?

使徒信条の語り出しは次のようになっています。「わたしは、天地の造り主、全能の父である神を信じます。」手元にある英語版の使徒信条を見ますと「I Believe(わたしは信じます)」という言葉で始まっています。調べてみると他の外国語の使徒信条も同様で、最初に「わたしは信じます」で始まり、その後、信じる内容が続くような形式になっています。共同体みんなで告白する文書なのですが、どういうわけか一人称単数の「わたしは信じます」で始まっているのです。
「教会とは何か」というテーマで書かれた良書、マイケル・グリフィスの『健忘症のシンデレラ』という書物があります。その本の中に、「一人ぼっちのクリスチャンはいない」という有名な表現が出て来ます。聖書は、その人がクリスチャンであることと、信仰共同体である教会のからだであることとは切り離せない関係にあると教えているからです。グリフィスによれば、聖書に出てくる、クリスチャンを指す「聖なる者」という言葉が全て複数形で出てくることを指摘しています。仮に単数形の場合でも、「一人ひとりの聖なる者」ということで、教会という信仰共同体が前提されて語られているというのです。
ところが、そんな話を聞きますと、「いや、別に私は一人でやっていける」とおっしゃる方も出てくるでしょう。そんな時に、主イエスが私たちクリスチャンを羊にたとえてお語りになったことを思い出したいのです。羊は群れがあっての動物です。「私は、一人でも信仰を守っていける」と言った羊がいたら、主イエスはその羊を「大丈夫な羊」とは呼ばず、「迷子の羊」と呼ぶわけです。私たちはそうした存在、教会と言う信仰共同体あっての私なのです。
さて、そのように教えられている中、ではなぜ使徒信条を告白する際に、「わたしは信じます」と告白するのか。むしろ聖書の教えからすれば、「私たち教会は信じます」と告白すべきなのではないかと思うわけなのですが、いかがでしょうか。正直、私自身、使徒信条を告白する度に、そうした疑問を持ちながらやって来た経験があります。皆さんは、いかがでしょうか。

Ⅲ.「わたしは信じます」

実は、そのことを考える意味で読ませていただきましたのが、ローマの信徒への手紙10章の言葉です。8節から10節でパウロは、「あなたの近くに」「あなたの口、あなたの心に」、そして「あなたは救われる」と、あくまでも二人称単数形で語り切っていて、決して「あなたがた」と複数形を使っていないことに気づかされます。これは聖書が教える、信仰の大切な側面、一人ひとりが信じて告白する、ということです。
昨年、御一緒にお読みした、マタイ福音書にある、「十人の乙女」の譬え話を覚えておられるでしょうか。油を切らしてしまった愚かな乙女に対し、賢い乙女は自分の油を分けることをしなかった、いや、分かち合うことが出来なかったのです。つまりこの世界には、分かち合うことのできない油というものがある。その油こそ、主イエスを信じる信仰だ、というお話をさせていただきました。私一人ひとりが信じるのです。パウロの言葉を使うならば、一人ひとりが自らの口で公に言い表して救われる必要があるのです。
ところが、ここで一つ問題が生じた。聖書の教えのエッセンスである使徒信条にも、主イエスが陰府にくだられたこと、そして天に昇られたこと、そうした主イエスの御業がはっきりと告白されているにもかかわらず、勘違いし、「だれが底なしの淵に下るのか」とか、「だれが天に昇るのか」と心の中でつぶやいたり、実際に言ったりする人が出て来た。仮にその主張が正しいとするならば、「キリストを天から引き降ろすことになる」し、「キリストを死者の中から引き上げることになる」。そうなれば、キリストが成し遂げてくださった救いは陰府にまでは届かない。天にも昇らない、結局、中途半端なものになってしまう。だとしたら、あなたの理性で、あなたの頭で考えだした、その信仰は完全な意味であなたを救うことにはならない、とパウロは語る。信じるということは、そういう事ではない、と言うのです。

Ⅳ.「同じことを言う」

このように考えますと、なおさら「私は信じます」という私個人が告白するのではなく、「私たちは信じます」と、聖書の信仰、教会が大切にしてきた内容のある信仰を、一緒になって告白する方がふさわしいのではないかと思ってしまうかもしれません。しかしくどいようですが、使徒信条もパウロの手紙も「わたしたち」ではなく、あくまでも「わたし」になっている。最後にそのことをお話して終わりにしたいと思います。
もう一度、10節に戻りましょう。ここに「公に言い表す」という言葉が出て来ますが、辞書で引くと大事なことに気づかされます。この言葉は「同じことを言う」という意味の言葉であることが分かりるのです。ここでパウロは、「あなた」、すなわち、この「わたし」が一人ひとり信仰告白をするわけですが、それは一人ひとりがバラバラのことを告白するのではなく、パウロは救いのために「同じことを言う」ことが大事なのだ、と語っているのです。
私たちの声は違います。高い声を出す人もいれば、低い声、太い声の人もいるでしょう。でもそれぞれの声で同じことを告白することで救われるとパウロは語るのです。
私はペンテコステの日の出来事を思い出しました。二千年前のペンテコステの日に、約束の聖霊が降った時、特別な現象が起こった。使徒言行録には、「すると一同が聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した」(2:4)とあります。
父なる神さまが約束された聖霊がイエスをキリストと信じる弟子たち1人ひとりの上に降った。その結果、彼らの心を動かし、口を開かせた、語らせた。ところが、語った言葉は他の国々の言葉だった。ですから、そこに居合わせた人々は、外国語を知らなければ、騒音としか聞こえなかったに違いない。そんな状況です。しかし彼らは気づいたのです。だから驚いた。それは聞こえて来る言語は種々雑多でしたが、そうした種々雑多な言語を通して語った内容が一つだった、一致していた。つまり神の偉大な業、福音という同じことを語っていたのです。ダイバーシティとユニティーと言ってもいいかもしれません。また日本語で「異口同音」という言葉がありますが、正に異なった口で同じことを言ったのです。
「わたしは信じます」、使徒信条の言葉は、まさに異口同音に同じ信仰を言い表すという意味なのです。
私たち一人ひとりが主体的に、自分の信仰として、告白する。しかし、それはバラバラではない。聖書が教えたとおりの同じ内容、主イエス・キリストの同じ救いの御業を共に告白する。なぜなら、私たちは、その同じ主イエス・キリストの救いに与り、その同じ主イエス・キリストによって生かされているからなのです。お祈りします。