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主日共同の礼拝説教

神の言葉を生きる

和田一郎副牧師
エレミヤ書9章22-23節、テサロニケの信徒への手紙二2章13-15節
2021年1月24日

Ⅰ.感謝という信仰告白

テサロニケの信徒たちは、パウロの手紙によって大いに励まされたことと思います。テサロニケの手紙は、他の手紙よりも励ましの思いが強いと思うのです。それは、パウロの祈りにおいて、繰り返し神様に感謝しているからです。13節「主に愛されている兄弟たち、あなたがたのことについて、わたしたちはいつも神に感謝せずにはいられません」。
パウロがいつも感謝しているのは、相手への感謝ではなくて、神様に感謝しているというのが特徴です。わたしたちは感謝することを、すぐに忘れてしまいます。愚痴や不満に思うことの方が多いのではないでしょうか。コロナ禍の中にいる今ですから、感謝できない言葉ばかりかも知れません。
イエス様がある村に入られた時、病を患っている人たち十人が声を張り上げて「イエス様、わたしたちを憐れんでください」と助けを求めました。イエス様は彼らを憐れんで病気をすっかり癒してくださったのです。しかし、そのことでイエス様のもとに戻ってきて感謝したのは、たった一人であった。他の九人は治ったらさっさと何処かへ行ってしまったのです。戻ってきた一人は病気だけではなく、本当の生き方を見いだして永遠の命を得たのです。イエス様は優しく「あなたの信仰があなたを救った」と言ったのです。
目に見えることも、目には見えない物事も、神様はその日その日で、必ずなんらかの恵みを与えてくださっている。今、生きていること、家族がいること、嫌な出来事でさえ万事を益として自分を整えようとする、神様の働きがあるのだ。そう思えた時、感謝は信仰の告白となります。パウロは、いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい、これこそが神様が望んでおられることなのですと、教えてくださいました。
パウロは、信仰においてテサロニケの人々のために、何度でも感謝できたのです。たとえ彼らの信仰理解が十分でなくても、怠けた生活を送った人がいても、パウロは感謝せずにはいられなかった、なぜなら、神様は必ず良い結果をもたらす恵みを与え続けて下さっている、という信頼があったからです。それがパウロの信仰です。パウロには感謝する、具体的な事柄がありました。
13節後半。テサロニケの人々が、パウロの宣教によって信仰をもち、その信仰が大いに成長して、聖なる者になっていることを喜んでいるのです。「初穂としてお選びになった」とありますが、神様はテサロニケの人々を、初めから救おうと計画されていた。天地創造という、世界の基の置かれる前からテサロニケの人々は神の選びにあったと喜んでいるのです。

Ⅱ.「義人であり、同時に罪人である」

「聖なる者とする“霊”の力」という言葉が13節にあります。テサロニケの人々や、わたしたちクリスチャンは聖霊の力によって「聖なる者」とされていきます。しかし、「自分が聖なる者だ」という表現にピンと来ない方が多いのではないでしょうか。日本人は自分を低く見なす美意識があります。逆に自分たちを「罪人」だと表現したほうがしっくり来る人が多いのではないでしょうか。
マルティン・ルターは、クリスチャンとは「義人であり、同時に罪人である」と言いました。クリスチャンが罪人であるという考えは正しいことです。しかし、高座教会で取り組んできた『エクササイズ』の著者ブライアン・スミスは、あえてこの結論は正しくないと断言していました。これはルターを否定したり、罪に対するこれまでの神学的理解を否定しているのでもありません。
「わたしたちは救われました。義とされ、神様との和解をしました。そして、同時に罪人です」という認識は、実生活での霊的な刷新、クリスチャンというアイデンティティを生きることに失敗するというのです。「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」と言いながら「今だ、わたしは罪人です」というアイデンティティの持ち方は、また罪に支配された者として、罪を犯すことに陥ってしまう。
日本人は、謙遜して自分を低く見なす美意識があり、例えば、相手に善いものを差し上げる時も「つまらないものですが」と言うのは、日本人の謙遜さを表している大切な文化です。ですから日本人のクリスチャンには「わたしは罪人です」とする方が、自分のアイデンティティになりやすいのだと思いました。本当であれば罪を赦されてキリストと共にいる、その温かさ、清らかさを実感していいのですが、「わたしは罪人です」というレッテルが深く刷り込まれていて、どうしても罪人に留まってしまう。いつの間にか、この世の価値観に流されてしまうというのです。

Ⅲ.エン・クリストオ (キリストにあって)

しかし、今日の聖書箇所でパウロは、聖霊の力が人を「聖なる者」とされたと言っています。テサロニケの人々が「聖なる者」となった、なぜなら、「聖なる者」とは、内にキリストが宿っている人だからです。わたしたちの体の「内に住む」と書いて、「内住」する神といいますが、パウロはそのことを「エン・クリストオ」というギリシャ語で表現しました。
英語では「イン・キリスト」、日本では「キリストにある」と翻訳しています。教会では「キリストにあって」、とか「主にあって」という言葉を使います。それは「エン・クリストオ」という、キリストがわたしたちの中に内住されている、ということを表しています。パウロはコリントの手紙で「イエス・キリストが、あなたがたの内におられることが、分からないのですか」(コリントの手紙二13章5節)と勧告しました。この重要な真理について、イエス様も大事な場面で語られました。
イエス様は、最後の晩餐の席上、これから十字架に架かるため、弟子たちと一緒にいられるのはこれが最後だという時に、神に祈ったのです。「わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。」(ヨハネ福音書17章23節)。
彼らというのは、わたしたちクリスチャンです。イエス様は「わたしが彼らの内にいるのだ」というのです。父なる神がイエス様の中にいて、一つとなっているように、主イエスは彼らの内にいて一つになる、と言われたのです。「完全に一つになる」と言われたように、わたしたちの内に住んでくださる神は、父なる神、子なるキリスト、そして聖霊である三位一体の神様が内に住んでいるという真理です。
さらにイエス様は、聖霊を送る、そして父なる神と私は、その人の所に行き、一緒に住むと言われました。(ヨハネ福音書14章23節)。三位一体の神様が、私たちの内側に住むようになる。それがイエス様の地上での最後のメッセージでした。
確かに、以前わたしたちは罪に支配された罪人でした。罪の性質が残っているのも事実ですので罪を繰り返します。しかし、罪の支配はなくなっています。この体は神が支配する、神の住む神殿になっている。ただ単に赦された罪人ではなくて「新しくされた人」。イエス様を体の内に宿して、イエス様と同じ「永遠の命」を持つ人なのです。
聖なる神様は、横にいるけれども、罪深いわたしはここにいる、ということではないのです。わたしの内に神がいる。それがパウロのいう「エン・クリストオ」であり、イエス様が「わたしは彼らの内にいるようになる」と言われた意味です。とても神秘的な真理です。
「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられる」(ガラテヤ書2章20節)
「自分は罪人だ」と罪を自覚した人は、心の中に壁を作ります。その壁は自分を守るための壁です。「自分は罪人である」という壁から出てくることは、とても難しいものです。しかし、イエス様がその壁を越えて、内に入ってくださった。わたしたちの性質が「聖」ではなくても、内住されるキリストゆえに「聖なる者」とされました。紛れもなく、わたしたちはキリストにあって「聖なる者」です。一度、罪赦され救われた人は必ずその内にキリストがおられます。問題なのは、キリストが内におられるという認識です。その働きを邪魔しないということです。

Ⅳ.まとめ

今日、お勧めすることが二つあります。一つはパウロに倣って、小さな出来事にも感謝する習慣を身につけていきたいということです。感謝は信仰告白だと言いましたが、感謝は内に住んでおられるイエス様の働きを強く、温かく、より豊かにします。感謝する習慣。感謝を見つける目を養っていきましょう。
もう一つは、コロナ禍にあって、今年もオンラインの礼拝が続きます。日曜日の礼拝を守る一年となるようにパウロの教えに従っていきたいと思うのです。今日の聖書箇所15節「ですから、兄弟たち、しっかり立って、わたしたちが説教や手紙で伝えた教えを、固く守り続けなさい」アーメン。
この一年、しっかり立って日曜日の説教と聖書の教えを固く守っていきましょう。
お祈りをいたします。