カテゴリー
主日共同の礼拝説教

天地の造り主-使徒信条③

松本雅弘牧師
創世記1章31節-2章3節、エフェソの信徒への手紙2章1-10節
2021年1月31日

Ⅰ.神を信じること

私たちが暮らす日本社会には「神」の名でもって呼ばれるものがたくさんあります。記紀神話に出てくる天照大神は、実在のものであるかのように神社に祭られ「神」と呼ばれています。今はちょうど受験シーズンですが菅原道真のように歴史上実在した人物が、その功績を認められて「受験生の神さま」として祭られる場合もあります。また人間だけではありません。山や木や石が神の名をもって呼ばれ崇められている現実があります。神への信仰を語る時、一番大切なことは、その神とはどのようなお方なのか、という問いなのではないでしょうか。その問いに対し使徒信条は、「神とは天地の造り主」と答えるわけです。

Ⅱ.天地を造られた神

さて、今日は創世記を読ませていただきました。創世記によれば、私たちの神は、天地の造り主なるお方であると教えています。創世記によれば、最初に造られたものから最後に造られた人間に至るまですべての被造物は、最終的に造り主なる神さまの支えがあって、初めて存在しうると説かれています。被造世界は造り主なる神さまによって一瞬一瞬支えられている。いや、この時間さえも神の被造物である。造り主なる神さまの支えによって、この世界が保たれ、生かされていることを創世記は教えています。そう考えますと、創世記に出てくる、後に造られたものであればあるほど、前に造られたものへの依存度が高い。
先日、駿河湾深海で巨大なイワシが発見されました。体長1.4メートル。体重が何と25キロに達する魚です。このイワシは主に魚を食し、食物連鎖の「頂点」にいるがゆえに「横綱イワシ」と命名されたそうですが、神学の世界では、一般に人間のことを「創造の冠」と呼ぶことがありますが、「創造の冠」として天地創造の最後に造られた、私たち人間は、自分たちが造られる以前に造られた被造物が何一つ欠けたとしても、実は生きていくことはできない。言わば神が造られたこの世界に対して一番依存度が高い存在であることが分かります。
そしてもう一つ、この世界をお創りになった神は、一日の終わりに、造られた被造物をご覧になり、「良しとされた」。そして最後、人間をお造りになり、ご覧になった時に、「極めて良かった」。そのようのおっしゃった。自画自賛なさったのです。つまり神は、この世界を良いものとして造られた。お創りになった神さまが良いお方だから。そして最後に造られた人間をはなはだよいものとして造ってくださった。創世記はそのように伝えているのです。

Ⅲ.神に造られた私

ところで、聖書は、神さまが、天地万物の造り主であることを語り、私たちが告白する使徒信条は、「私は天地の造り主である神を信じます」と告白するわけですが、その告白を深めていくと、もう一つ大切な信仰理解に行きつく。天地の造り主である神は、私を造られた神である、私は神に造られた私である、という信仰へと導かれるのではないでしょうか。
創世記は、人間が「神のかたち」に造られていることが分かります(1:26、27)。「神のかたち」とは何か。一言で表現するならば、人間は神の特質を備えた者として造られているということでしょう。一般に神学者たちは、神の特質として3つのことを挙げています。①神は自立自存のお方。②造り主なるお方。③全てのものから自由で、全てのものを支配する自由なる主権者。この3つが一般的な特質ですが、私はこれに神は愛なるお方、しかも良いお方であることを付け加えておきたいと思います。その神さまが、ご自分に似せて人をお造りになったということは、こうした特質を反映する存在として人は造られたというのです。人間のこうした特質を一般的な言葉を使えば、「人格」という言葉が当てられるでしょう。
ただ、神は人を人格そのものとはお造りになりませんでした。神さまは、人を「土の塵」でお造りになった。「土の塵」。風が吹けば吹き飛ばされ、地球の引力に引き付けられるものです。被造物の一部です。外の力に支配され、必然性の法則のもとにおかれる存在として、神は人間を創造なさったのです。ところがそれで終わりませんでした。「土の塵」、地上の物質を素材として造られた人に命の息を吹き入れられて初めて、人は生きる者となったと言われています(創世記2:7)。人間は被造物であるにもかかわらず、他の被造物と区別されるかのように「神のかたち」に造られ、それ故、息を通わせるような、造り主なるお方との生きた、親しい交わりのなかで、初めて生きる者、つまり人格を与えられた存在として、人間らしく生きることができる。例えば、このことについて、私たちカンバーランド長老教会の「礼拝指針」では次のように告白します。
「私たちは人間として、欠乏感に迫られて礼拝することを知っている。私たちは自分自身では満ち足りることができないのであり、造り主と出会い、礼拝することによって、完成と充足を経験するのである。礼拝するとは、人間が人間になることである。」(『礼拝指針』)

Ⅳ.造り主なる神の準備された善い業に生きる

私は、この説教の冒頭で、隅谷三喜夫先生の、「人生の座標軸」の話をさせていただきました。神さまが創造者であり、そのお方に対して、私自身は「神に造られた私」である。その関係が、被造物である私にとっては、本当に大切な知識であり、告白であることを思うのです。こうしたテーマを考える時、いつも心に浮かぶのが、「瞬きの詩人」と呼ばれ、親しまれた水野源三さんの詩です。水野さんは9歳の時に赤痢にかかりました。高熱で脳性まひになり、見ることと聞くこと以外の機能を全部失ってしまった。でも本当に幸いなことに13歳の時、自分を捜しておられる神さま、自分を造り愛しておられる神さまを知った。そして受洗し、クリスチャンになったのです。それ以来、お母さんが作った「あいうえお」の書かれた「50音表」を、瞬きで合図しながら、一つずつ言葉を拾い、詩を創られました。そのようにして証しして生きられた人が水野源三さんです。その作品に、こんな詩があるのです。
“たくさんの星の中の一つなる地球/
たくさんの国の中の一つなる日本
たくさんの町の中の一つなるこの町
たくさんの人間の中のひとりなる我を
御神が愛し救い
悲しみから喜びへと移したもう“
水野さんは見ることと聞くこと以外の機能を全部失ってしまいましたから、少し想像しただけでも、自らを「カメ」にたとえるほど、どうにもならない《自分の小ささ》を実感していました。でも、そのような小さな者を愛して、天地万物の創造者なる偉大な神が、カメのような自分を御心に留め、捜し出してくださった。そのお方に出会ってから、つまり人生にその御方との関係という縦軸をいただいてからは、自分にしか出来ない生き方、自分に与えられている、自分しか歩むことの出来ない人生を、神さまと一緒に歩むことを決心したのです。
同じような信仰体験をしたダビデも詩編のなかで次のように歌っています。
「あなたの天を、あなたの指の業を/わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう/あなたが顧みてくださるとは。」(詩編8:4、5)
本日の聖書箇所エフェソ書2章には、神さまによって素晴らしく造られた人間が罪を犯し、神から離れてしまった。しかしキリストによって再び連れ戻され、神との交わりが回復するなか、再創造された私たちが、善い業を行って生きていく。生かされている目的が出て来ます。聖書協会共同訳では、私たちは「神の作品」だと訳されています。神さまが愛の意図をもってお造りになった。私という作品に込めた意図が、「神が前もって準備してくださった善い業」です。その意図とは、まさに十戒が示すような「神を愛し、人を愛する」生き方。それを元にして毎週宣言される「派遣のことば」にあらわされているような生き方です。また、それぞれに与えられている情熱や賜物を生かした、その人しかできない生き方でしょう。
鼻と鼻を突き合わせるほどの神さまとの親しい交わりをいただきながら、それぞれに与えられている善い業を行って生きることで、作者としての神さまの素晴らしさを証しして生きる。「私は、天地の造り主を信じます」と告白する時、そのような生き方を神さまに導かれることを覚えながら、告白するように生きる者でありたいと願います。お祈りします。