松本雅弘牧師
イザヤ書66章10-14節
ローマの信徒への手紙8章14-17節
2021年2月7日
Ⅰ.神を「父」と呼ぶことへの抵抗感/違和感(?)
しばらく前のことですが、説教で「神さまは父親のような存在なのだ」と語ったところ、ある方が来られて、「先生、神さまを〈父〉と呼ぶことに,私は抵抗を覚えます。そのことだけはストンと落ちないのです」。そういうお話をいただいたことがあります。「父」という言葉は、今の私たちにとってどのような印象を与えるものなのでしょうか。しばらく前の日本では父親は怖い存在の代表のように扱われてきましたが、一方で父親の権威は認められていたかと思います。でも現在の日本社会では、父親がらみの犯罪、家庭内暴力/性暴力を繰り返す父親の犯罪報道が頻繁に目に付くご時世。主イエスが地上の父親をもって神を紹介することに抵抗を感じるのは当然なのではないかと思うのです。こうした中、使徒信条は神を父と告白している。そもそもなぜ主イエスご自身が神を父とお呼びになるのか。どのような意味でそうお教えになったのか。そのような問を心に留めながら、今日は、「父である神」についてご一緒に考えてみたいと思います。
Ⅱ.イエスが神を「アッバ父」と呼んだ意味
主イエスが、神を父と呼ぶようにと示された“きっかけ”は、弟子たちが、「主よ、わたしたちにも祈りを教えてください」とお願いしたことにありました。その願いに対し、「こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。』」(マタイ6:9)とお語りになったのです。ただ聖書は、「父」という言葉が当てられていますが、実際に主がお使いになったのは、「アッバ」というアラム語の言葉です。
ある牧師曰く、「この『アッバ』はイエスが活動したガリラヤ地方で人々が話していた言葉、アラム語では幼い子どもが父親を家庭で呼ぶときの言葉で、あまり外では使わない、大人になったら使うのが恥ずかしい、『おとうちゃま』とか『とっと』とかいう呼び方」。とっても砕けた呼び方、一番、親しみを込めた呼び方です。幼い頃、皆さんは、父親を何とお呼びになっていたでしょう?「とうさん/お父ちゃん」、主イエスは、そう呼びなさいとお教えになったのです。
ところで、このことの関連で、一つ確認しておきたい事実があります。イエスさまの時代、もっと正確な言い方をするならば、旧約聖書の中で、神を父と呼ぶことは一般的ではなかったということです。旧約聖書には「父」という言葉が約千回使われています。そのうち神をさして「父」と出てくるのがたった15回、しかもその場合、「厳しく近寄りがたい存在」というイメージが強いのです。つまり神を指して「父」と呼ぶことは一般的でなかったにもかかわらず、主イエスは敢えて、ご自分の弟子たちに対して、祈る時に、「そう呼びなさい/そう呼び掛けるのですよ」と、教えられたのが、「アッバ父」という呼び方だったのです。
ヨハヒム・エレミヤスという聖書学者が次のように語っています。「われわれはここで基本的な意義を持つ一つの事実に出会っていることになる。すなわち、ユダヤ教の中には神に対してアッバという呼びかけがなされたという証例がただの一つも見つからないのに対して、イエスは自分の祈りの中では絶えずこの呼びかけを用いていたということ、(中略)アッバは子どもの言葉、日常語であり、親しい仲での敬語なのである。イエスの同時代人の感覚から言って、こういう日常身近な言葉を使って神に語りかけるなどは不謹慎きわまること、否考えることさえできないことであったろう。」(角田信三郎訳、『イエスの宣教』)
実は、主イエスが地上の生涯を送られた当時、ユダヤはローマ帝国の支配下にありました。そこで何が起こっていたかと言いますと、ローマ皇帝が植民地の住民に対し自らを「父」と呼ばせるようにしていたのです。ゼウスとかジュピターが、「天の父」であり、ローマ皇帝はそうした神々の地上における代理者としての「父」として、自らを現人神として崇拝させることを強要していた時代です。その時代に主は、「地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ」(マタイ23:9)とお語りになった。主イエスご自身が祈りを捧げ、導こうとなさったお方を指して、「アッバ父」と呼びかけるように教えられた。これは、当時の政治体制にたいする一つのプロテストだと言われます。
Ⅲ.父なる神は男性?
さて冒頭、神さまを「父」という言葉で表すことに抵抗を持たれる方のお話をしました。結論から言うならば、主イエスが神さまを指して「父」とお呼びになる時、それは神が男性であることを意味しているのではないことも付け加えておきたいと思うのです。その証拠に、聖書を丁寧に読んでいきますと、そこには母なる神のイメージも出て来る。今日、朗読箇所で取り上げた、イザヤ書66章13節に、「母がその子を慰めるように/わたしはあなたたちを慰める。エルサレムであなたたちは慰めを受ける」とあります。つまり神さまを父と呼ぶ時、それは神のジェンダー/性別を問題にしているのではい。このことは、ぜひ覚えておきたい、心に留めたいと思います。ただ残念ながら、長きにわたり、キリスト教の歴史の中で、「父なる神」の「父」を性別/ジェンダーとして受けとめ、その結果、男性中心の社会や文化、家父長制を正当化する根拠として用いられてきた歴史が教会の中にもありました。高座教会においても、女性長老を認めることのできなかった頃、そうした聖書理解があったかと思います。
Ⅳ.神の家族としての私たち
今日は第一主日で、本来ならば聖餐に与る日です。最後の晩餐の席上で、主イエスは、取り上げたパンを指し「取って食べなさい。これはわたしの体である」と言われ、そしてまた杯をも取り上げ、「皆、この杯から飲みなさい。これは罪が許されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と宣言された。実は、それと同じように大切な宣言を主イエスはなさっていたことを福音書は伝えています。それは「神の家族宣言」です。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」ご自分の周りに居た人々、そして弟子たちを指さして、そう宣言なさったのです。幸いなるかな、神は私たちにとって、「アッバ父よ」と呼びかけることが許されているような存在なのです。私たちをあるがままそのままで愛してくださっている。勿論、私たちが犯す罪を憎まれます。それは、罪が神の子である私たちを傷つけダメにするからです。命の源である神から私たちを断絶させるからです。だから神の子たちのことを思い、的外れの生活から解放したいと願い、御子イエス・キリストを送り、罪の支払う報酬である死を、私たちの身代わりの死を、十字架の上で成し遂げてくださった。
神は私たちをどう見ておられるか。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と見ておられる。放蕩息子の父親のようなお方が、使徒信条で告白する「父なる神」、主イエスが「アッバ父よ」と呼ぶようにと示してくださったお方です。息子の帰りを毎日毎日忍耐して待ち、戻って来た息子の姿を見付けた途端、一直線に走り寄り、抱きしめ、「ああ、よかった!」、息子の無事、その存在を喜ぶ。それが、私たちが使徒信条で「父なる神を信じます」と告白する神さまなのです。
パウロは、神が私たちと、そうした親しい関係、その関係を成り立たせるために、信じる私たちの内側に、聖霊を与えてくださったのだと明言しています。「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。」私たちの信じている神さまは、放蕩息子を迎える、愛に満ちたアッバなるお方、しかも、そのお方を、私たちの心の深み、霊において告白できるように、聖霊が私たちの内側に住んでくださる。しかもそのお方は、私たちをして心の底から「アッバ、父よ」と呼び掛けられるように、告白できるようにしてくださる。
「私は、父である神を信じます」と使徒信条で告白する時、そのような恵みの現実の中に置かれ、生かされてことを覚えたい。その恵みを与えてくださる神さまを、「アッバ父よ」と呼びながら、この一週間も歩んでいきたいと願います。
お祈りいたします。