松本雅弘牧師
創世記18章16-33節
エフェソの信徒への手紙1章15-19節
2021年2月14日
Ⅰ.全能の神と私たち
「全能」の「全」とは「すべて」とか「完全」という意味、「能」とは「能力」のことですから、「全能」とは「すべてのことができる」ということでしょう。私たちが使徒信条で、「全能の神を信じます」と告白する時、「すべてのことがお出来になる神を信じます」という意味でしょう。いかなる神を信じるかは、その人の信仰生活を枠づけると言われます。では、神さまが全能であるということはどういうことなのか。そのお方を信じる私たちはどうなるのでしょうか。創世記によれば、天地の造り主、全能の神は、被造物に過ぎない人間と関わりを持たれるのです。今日はそのような視点から創世記第18章の出来事を手掛かりにしながら「全能の神を信じる」ということについて、御一緒に考えたみたいと思います。
Ⅱ.聖書の神さま
ある暑い日、それも真昼頃、遊牧民の格好をした3人の男がアブラハムの天幕にやって来ました。アブラハムはその彼らをもてなす中、ソドムの滅びの計画を知らされていくのです。
Ⅲ.自問なさる神
今日の箇所には驚くべき言葉、神の独り言が記録されています。「わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか」、聖書協会共同訳では、「私は、これから行おうとしていることをアブラハムに隠しておいてよいだろうか」と訳されています。
このとき神はソドムを滅ぼそうと考えておられた。ソドムの住民の悪が極限に達していたからです。神さまは王の王、主の主ですから、ご自分で考え罰をくだしたとしても、誰も文句など言えません。神さまですから。でもこの時、ご自身の側でわざわざアブラハムに伝え、彼から意見を求めようとしておられる。「私は、これから行おうとしていることをアブラハムに隠しておいてよいだろうか」という独り言は、そういうことでしょう。主なる神は全宇宙の創造者で統治者であるお方、しかも正義の神であり、審判者なるお方。その偉大な神が、アブラハムという1人の人間に、ご自身のご計画や考えを報告し、相談しようとされる。それは、神がアブラハムをそのような者としてお選びになったからでした。この「選んだ」というヘブル語は「友とする」と訳せる言葉です。聖書よれば、神は私たちとも同じ関係を持ちたいと願っておられる。神さまのお働きの協力者として選ばれ、友として生かされているということです(ヨハネ15:15)。こうしてアブラハムは祈りを通し神との話し合いを始めたのです。
Ⅳ.全能の神を信じます
そうした中、アブラハムにはどうしてもはっきりさせたいことがあったのです。「正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」〈神さま、どうしてあなたが〉という思いです。これまで神を信じて生きて来た。そのお方こそ人生の拠り所となるお方です。それなのに、何で神がこのようなことをしようとなさるのか、分からない。昨年から何度も心の中に頭をもたげる、「コロナ禍における神の沈黙」と相通じるテーマかもしれません。全能の神、善きお方なのに何故?
私たちが使徒信条で、「全能の神を信じます」と告白する。そのように、「すべてのことがお出来になる神を信じます」と告白した瞬間、なぜ、この世の中にはこんなにも不条理な苦しみがあるのだろうかと、ふと神の無力さを思ってしまうわけなのです。義人と言われる人に災いが降りかかり、罪のない人が犠牲になる。コロナのような疫病がどうして起こるのか、いや、神さまが全能ならば、何で、このような状態を放置されるのか。私たちは問いたくなる。さらに続けて、神が全能でなんでもおできになるならば、例えば、嘘をつくことができるのか。聖書には「神は常に真実で、自分を偽ることができない」(Ⅱテモテ2:13)という御言葉があるが、それは神の全能を否定するものではないか。神は悪を行うことができるのか。罪を犯すことができるのか。神は死ぬことができるのか。そうした意地の悪い問いかけが、次々と心の中に湧いてくることさえあります。アブラハムもそうでした。「どうして神は正しい者を悪者と一緒に滅ぼしてしまうのですか。そのようなことをなさったら、もうあなたは正義の神ではなくなってしまいます。あなたのことが分からなくなりました。」誤解を恐れずに言えば、ここでアブラハムの祈りの中心点はソドムの運命云々ではなく、むしろ神ご自身の資質を問うていたのではないかと思うのです。
創世記に戻ります。27節、「塵あくたにすぎないわたしですが、あえて、わが主に申し上げます」と祈っています。そう言えば、若き預言者イザヤも同じような経験をしました。煙の中に輝くまことの神の臨在に触れ、イザヤの口から飛び出したのは、「災いだ。わたしは滅ぼされる」、新改訳は「ああ。私は、もうだめだ」(イザヤ6:5)という叫びです。
まことの神の御前に立たされる時に、人の心に畏れが生じる。ですから、創世記のこの箇所を注意深く読む時、アブラハムは、本当に知りたかったことを質問していないことに気づきます。なぜなら、恐ろしかったから。〈こんなことを訊いたら殺されるかもしれない〉と思ったから。ですから30節、彼は震えながら、でもぎりぎりのところで、「主よ、どうかお怒りにならずに、もう少し言わせてください」、32節、「主よ、どうかお怒りにならずに、もう一度だけ言わせてください。もしかすると、十人しかいないかもしれません」と申し上げています。そして、創世記によれば、彼のこの訴えに対する主の答えが、「その十人のために滅ぼさない」というものだったというのです。
するとどうでしょう。アブラハムは対話を切り上げ、家に帰ってしまうのです。なぜここで終わりなのか。何が起こったのか。詳細は分かりません。でも一つ、確かなことがあると思います。それはアブラハムが納得した、ストンと腑に落ちたのです。
「滅ぼさない。その40人のために。…滅ぼさない。もしそこにわたしが30人を見つけたら。…滅ぼさない。その10人のために」と、そのように返ってくる答えごとに、神の、そのお方のイメージがアブラハムの中で変えられていった。自分の前におられるお方は、「得体のしれない怪物/理屈の通じない暴君」ではない。いや今まで以上にもっと信頼できるお方だった、という納得です。
ですから、さらに人数をカウントダウンし、駆け引きする必要もありません。誤解を恐れずに言うならば、たとえ何が起こったとしても、起こらなかったとしても、このお方は信頼できる。
私たちの言葉で言うならば、祈りの格闘を通して、アブラハムは神との新たな出会いを経験した。それによってアブラハム自身も変えられる経験をしていったのです。
神さまは全能のお方である。でも、それだけではありません。そのお方が創造の冠として、ご自身のかたちに人を造られた。そして造られたこの世界を、神と共に治めるように、この世界、この歴史形成の担い手として、私たち人間を召しておられる。
昨年の8月、タラントンの譬え話から説教した時に、台所での子どものお手伝いの話をしました。お母さんのお手伝いをする時、小さな子どもは、本当に満足をする。物凄い喜びで満たされる。お母さん一人でしてしまえば、時間もかからず、おいしく仕上がる料理ですが、敢えて、子どもに手伝わせると手間もかかります。失敗するかもしれません。でも、そうしたリスクを承知の上で、そのようにする。なぜでしょう。作る喜び、作った物を家族が食し、喜び合う幸せを子どもと一緒に分かち合うためです。その喜びに与らせてくださる。そして喜びだけではありません。悩むことも、怒ることも、分からずに苦しむことも起こる、何故なら、神が私たちを歴史形成のパートナーとして、友として選ばれたから。選んだ神さまが「これから行おうとしていることをアブラハムに隠しておいてよいだろうか」と自問なさるようなお方だからです。私たちは、この光栄な招きと選びを引き受けそのお方のことを、「全能の神を信じます」と心から告白して歩む者でありたいと願います。
お祈りいたします。