篠﨑 千穂子 神学生
マタイによる福音書22章34-40節
ペトロの手紙一5章6節
2021年2月21日
Ⅰ.「キリスト教はご利益宗教?」
私は千葉県にある成田市の出身です。成田市は、成田山新勝寺という大きなお寺を有していることもあり、毎年多くの参拝客がおとずれる観光地です。私はこの成田山新勝寺が経営する幼稚園、中学、高校に通っていました。高校生の時に信仰をもってクリスチャンとなりました。毎日お寺の脇を通って通学しながら、私が毎日考えていたこと、それは、「お寺ってご利益宗教だなぁ」というものでした。当時の通学路には大きな駐車場があって、そこでは交通安全のお札をもらえます。駐車場に交通安全を祈願してほしい車をとめておくと、交通安全の祈りが届いてその車が守られる。そういう仕組みになっているようです。また、地元の人はよくこんなことを言っていました。「ご本尊のお不動様はやきもちやきだから、カップルでお参りをする場合は必ず別の門から分かれて参拝しなくちゃだめだよ。」家内安全、大願成就、商売繁盛、といったいろいろなことをかなえる力があると言われているに、やきもちをやくという不安定さ。そんな不安定な神様に支配されているなんてお気の毒様と思っていました。でも、今になって考えると、あのときの私は大きな思い違いをしていたように思うのです。だって、不動明王はやきもちをやく偶像かもしれないけれど、それをいうなら聖書の神様は妬む神です。成田山新勝寺に人々が多くの願いを持って参拝するように、私たちクリスチャンも沢山の祈りや願いをもって神様の前に立っています。「私たちは神様にご利益を求めているわけではない!」とクリスチャンは言うかもしれないけれど、本当にそうでしょうか?
私は誤解を恐れず言うならば、キリスト教はご利益宗教の一面を持っていると思います。では、私たちは一体どんなご利益を、誰によって与えられようとしているのでしょうか?
Ⅱ.「身を低くする」、その根拠は?
なぜキリスト教をご利益宗教だと思うのか?その根拠は本日お読みしたペトロの手紙一5:6にあります。冒頭に「だから」という言葉が入りますね。言わずと知れた、理由と結論を説明する接続詞です。つまり、5章6節の「力強い御手のもとで自分を低くしなさい。」という結論の前に、その理由が書かれているということになります。では、なんで私たちは身を低くしなくてはいけないのでしょうか。「だから」の前部分、5章5節には、こんなことが書かれています。「『神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる』からです。」つまり、「謙遜な者には恵みを与える神がいるんだよ、だから自分を低くしなさい。」というのが、ここでペトロが言っている主旨ということになります。「恵みが欲しいから、謙遜になる。」「安全が欲しいから、お札を買う。」…何かが欲しいから何かをするという意味で、私たちのメンタリティーはご利益主義のそれと変わりがないように思うのです。キリスト教は、そういう意味でご利益宗教です。けれども神様に多くのことを求めることは決して罪ではありません。神様は喜んで私たちを「恵んで」「高めさせてくださる」方であります。ただ、私たちは自分の願いを神様の前にもっていく時『神様が下さる恵み』や『高めさせてくださる』ことの内容を一度確認する必要があるのです。
Ⅲ.へりくだりの先の「恵み」とは一体何か?
私は以前、自分の名前を「漢数字の千、稲穂の穂、子どもの子で『千穂子』です。」と説明をして、「神様の恵みがざくざくした感じの名前ですね。」と褒められたことがあります。でも実は、恵みの内容をわたし自身はわかっていないような気がします。多くの恵みをと名前を付けられた私自身は恵みを随分小さく見積もっているなあとも思わされます。たとえば私は、自分の願いが叶ったときに、「恵まれた!」と言ってしまいます。皆さんはそんなことないでしょうか。志望校に合格した時、仕事がうまく運んだ時、欲しかったものが手に入ったとき、結婚した時、病気が治ったとき、あるいは教会の人数が増えたとき…?「恵まれた!」と言ってはいないでしょうか。確かにそういうものは恵みの一部です。けれども、分かりやすいものだけが恵みだというのは聖書の教えではありません。新約聖書で「恵み」とは「カリス」という言葉で表されていますが、この言葉の語源は、「思いがけずに示される誠実さ」を表すのだそうです。神様はペトロを通して、「思いがけずに神様からの誠実さを受け取りたいのならば、神の力強い御手のもとで自分を低くしなさい。」というのです。なぜなら、思いがけない誠実さは、強くて自信に溢れていて自分で何でもできる人には受け取れないものだから。弱く悲しく絶望しているときにこそ、神の誠実さは深く深く心に染み入るものだからです。
Ⅳ.疲れ果てた民への戒め
このペトロの手紙一が書かれた時代、この手紙の宛先である小アジアのクリスチャンたちは迫害の勃発を恐れながら生きていました。そんな試練に悩むキリスト者たちに、ペトロは厳しく生活を律することを求めます。ペトロが提示する戒めは、「神である主を愛しなさい、隣人を自分のように愛しなさい」というイエス様が示した二つの律法に依っていました。全ての律法はマタイによる福音書22章でイエス様が語られたように、「神を愛すること」と「隣人を愛すること」に集約していましたが、この律法は私たちクリスチャンが、神様が造られたこの世界を安全に安心して生きるためのガイドラインとして与えられたものでした。神が創り、神が支配するこの世界を安心して生きるには、神を愛することが一番の方法です。神に創られ、神に愛された人々と安全に暮らすためには、その人たちをまず愛する必要があります。そして「神である主を愛しなさい、隣人を自分のように愛しなさい」この二つの律法を真面目に守ろうとするならば、私たちは真剣に神の前にへりくだることをせざるを得なくなってきます。それはおのずと、人の前にもへりくだることにつながってくると思うのです。でもそういうときに、私たちは思いがけない誠実さを受け取ることになります。強くて自信満々のときの私や皆さんではなく、弱くて悲しくて寂しくて絶望した私や皆さんのほうが、受け取った誠実さに敏感になることができるように思うのです。
Ⅴ.「今」、へりくだるということ
わたしたちは、この1年をコロナ禍という特殊な環境の中で生きて参りました。誰も明日が想像できない不安定な時代を過ごしてきました。絶望に満ちたこの時代、そのような時にこそ、神の御前に自分を低くしよう。いつかこの世界がコロナから回復した時、ただ元の世界に復元するのではなく、正しく回復させるべきものを選び取っていくことができるようにしよう。そのために、神の前にへりくだる必要がある…そんな思いから、高座教会ではペトロの手紙一5章6節の「だから、神の力強い御手のもとで自分をひくくしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。」というみことばを、2021年の主題聖句としています。
私たちはへりくだりを求めています。けれどもへりくだりの根拠は時として、私たちの誠実さには由来しないかもしれません。恵まれたいから、神様に助けてほしいから、思いがけない誠実さを神に示していただきたいから、知恵を頂きたいから、神の前にへりくだる。私たちはただ神への熱心さや神への熱い思いだけでへりくだることができない者です。それでも、神はただただ私たちに誠実を尽くしたいから、「へりくだりなさい」「神を愛しなさい」「隣人を愛しなさい」と命じておられるのです。「へりくだりなさい」と言われる神は、私たちがへりくだることができない者だということを知っています。「神を愛せよ、隣人を愛せよ」という神は、私たちが神と隣人を愛せない者だということも知っています。キリストが戒めねばならないほどに、私たちは、隣人を憎む者なのです。私たちは人を憎み神を呪うことしかできない自分に絶望します。けれども、私たちの救い主は、そういう私たちのために命を捨てて、救いの道を開いてくださった方です。それが、私たちに与えられた思いがけない神の誠実さの真骨頂であります。神を愛することができない私たち、隣人を憎むことしかできない私たちに、神が与えられた、「神の力強い御手のもとで自分を低くしなさい」という戒めがあります。「思いがけない誠実さを、あなたにきっと表すから。だから、自分を低くし、神と人を愛してみなさい。あなたがこの世界を安心して暮らせるように、神と人を愛せるようにしてあげる。わたしの『ご利益』を信じてみなさい。」そう語られる神が、私たちの目の前におられます。私たちはこの招きに、どう応えていくでしょうか。