和田一郎副牧師
ルツ記2章1-4節、テサロニケの信徒への手紙二3章1、2節
2021年2月28日
Ⅰ. コリントでの困難な状況
今日の聖書箇所のはじめに「終わりに」とパウロは記しています。パウロがテサロニケの教会の人々に宛てた手紙も、終わりに近づいています。これまでパウロはテサロニケ教会に向けた手紙の中で、神様に喜ばれる聖なる生活について、この手紙の中で教えてきました。まだ、できたばかりのテサロニケ教会は、ユダヤ人たちに迫害されることもあったのですが、パウロは手紙を通して彼らを励まし続けていました。しかし、実はパウロも困難な状況の中にいたのです。パウロはアテネという学問の盛んな町で宣教をしましたが、そこで教会を形成することはできませんでした。次にたどり着いたコリントの町は、腐敗と繁栄が入り混じった大きな町でしたが、このコリントの町でもユダヤ人による妨害があったのです。ある夜、パウロは幻の中で神様の言葉を聞きます「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる」(使徒言行録18章10)。苦難の中にいるパウロには、このような励ましの言葉が必要でした。多くの人々を信仰に導き、励ましてきたパウロ自身も、実は励ましと支えを必要としていたのです。
そこで今日の聖書箇所3章1節で、パウロは求めるのです。「兄弟たち、わたしたちのために祈ってください。主の言葉が、あなたがたのところでそうであったように、速やかに宣べ伝えられ、あがめられるように」。テサロニケにパウロが滞在したのは、たった3週間程であったと言われています。そこで福音を信じた信仰者たちは、パウロが去った後もテサロニケで教会を形成したのです。テサロニケ教会でそうであったように、パウロが今滞在しているコリントでも速やかに福音が宣べ伝えられるように、祈って欲しいという祈りの要請です。しかし、それは簡単なことではない。テサロニケの町でそうであったように、ここコリントでもパウロの宣教活動を妨害するのはユダヤ人でした。しかし、考えてみますと、イエス様もパウロもユダヤ人です。なぜ、パウロが行く先々でユダヤ人たちの妨害を受けたのでしょうか。
Ⅱ. ユダヤ人
新約聖書の時代、ユダヤには多数の信仰グループが存在しました。ファリサイ派やサドカイ派などの分派がたくさんありました。しかし、彼らの信仰は旧約聖書に記されている本来の信仰からは、それぞれ逸れてしまって、偏った解釈のもとで信仰を守っていました。多くのユダヤ人はユダヤ人以外の民族を「異邦人」と呼んで、人間として低くみなしていたのです。しかし、イエス様は、ユダヤ人が救いには与れないと決めつけていた異邦人にも救いがあると説いたので、彼らとの間で緊張が生まれました。そして、十字架の贖いによって、それが決定的になりました。すべての人々に救いの道が開かれたのです。パウロは、その救いの道を福音として広めたのです。特に異邦人宣教のために、復活したイエス様から召命を受けて、諸外国の異邦人伝道の働きにつきました。ですから異邦人に神様の祝福などはあり得ない、としていたユダヤ人から攻撃の的となったのです。同じユダヤ人、同じ唯一の父なる神様を信仰していたが故に、その理解の違いからパウロは行く先々でユダヤ人の妨害にあったのです。今日の聖書箇所の2節に「道に外れた悪人ども」とは、ユダヤ人のことであり、「すべての人に信仰があるわけではないのです」というのも、イエス・キリストを救い主であると信じる信仰を、すべてのユダヤ人がもっているわけではないとパウロは説明しているわけです。だから、「祈ってください」自分の働きには祈りが必要なのだと、祈りの要請をするのです。
Ⅲ. 祈ること、共に生きること
今日の箇所は「祈ってください」という、相手にお祈りをお願いしている箇所なのですが、パウロが祈りの要請をしている箇所は、他の手紙でも多く見ることができます。
「“霊”が与えてくださる愛によってお願いします。どうか、わたしのために、わたしと一緒に神に熱心に祈ってください、」(ローマ書15:30)。「わたしがしかるべく語って、この計画を明らかにできるように祈ってください」(コロサイ4章4節)。パウロは相手のためにいつも祈る人ですし、「祈って欲しい」と求める人です。
ボンヘッファーという神学者は「キリスト者は、日ごとに共に生活すべき人たちである・・・すべてのキリスト者の共同生活の核心とも言うべき点は・・・その成員相互のとりなしの祈りによって生きるのであり、それがなければその交わりは壊れてしまう」(『共に生きる生活』)。つまり、互いに祈り合って生きる日ごとの生活が、キリスト者をキリスト者たらしめると言っているのです。ひとつの教会に繋がる信徒同士が、互いに祈り、祈られる、それがキリストにあって「共に生きる」ということなのです。
今日お読みした、旧約聖書ルツ記の箇所は、ルツという女性が姑のナオミと二人でベツレヘムにやってきた時の話です。やもめになって先行きに不安のある女性二人が、その町にやって来ました。嫁のルツは、ある畑に行って落穂を拾わせてもらおうと思いました。収穫をしている他人の畑に行って、落ちている麦の穂を拾わせてもらう。貧しい二人が食べていくには、この方法しかありませんでした。そこに畑の主人がやってきて、作業をしていた農夫たちとあいさつをするのです。主人が「主があなたたちと共におられますように」と言うと、彼らは「主があなたを祝福してくださいますように」と挨拶を返しました。執り成しの祈りが、そのまま挨拶になったような、温かい信仰共同体の様子を見ることができます。その温かい信仰共同体の中に入ることができたナオミとルツは、神の祝福を得ました。神様において結ばれた信仰共同体においては、信仰によって「共に生きる」という、恵に満たされた生活があります。
テサロニケの手紙に戻りますが、互いに祈り合うといっても、パウロのように「自分のために祈って欲しい」と、なかなか言えない思いもあると思うのです。「誰かのために祈りましょう」とは言えても、「私のために祈って欲しい」と口に出して言えない人というのは多いように思います。日本人は、人にお願いごとをするのを遠慮する文化があります。相手に心配させたくないですし、困っていることを人に打ち明けることをはばかる思いがあると思うのです。しかし、今日の聖書箇所から、パウロはそのような遠慮をする文化から一歩踏み込んで「祈って欲しい」と祈り合う、キリストにある交わりの奥深さを勧めているのです。
わたしは、亡くなった母の言葉で大切にしていることがあります。母が病気で入院している時、亡くなる数か月前のことだと思います。母は自分が天に召されて葬儀を行う時に、誰に何を依頼すべきか、リストにして紙に記してありました。葬儀の司式をする牧師先生、オルガンの奏楽者、控室での食事の支度をお願いする近所の方々などです。その紙を私に渡して「人にお願いごとをするのも、大切なコミュニケーションなのよ」と言いました。私は言われた通りに、皆さんにお願いをしました。そして、そのことをずっと大切にしてきました。母の名前は頼子です。「神様に依り頼む人」という意味をこめて「頼む子」と付けられたそうです。それで私も自分の息子に、人を信頼して、人に頼り頼られて育って欲しいので「頼人」と名付けました。人と祈り祈られる人になって欲しい、神様に信頼して依り頼む人になって欲しいと思いました。
パウロは、「自分のために祈ってくれなくても大丈夫」などと言うことはありませんでした。むしろ「祈って欲しい」「祈ってください」と何度も依頼しました。それは祈りを通して生み出される、力を信じていたからです。
Ⅳ. 祈ってください
パウロの手紙を読んでいると、パウロの祈りの要請は、その相手や目的も多様であることに気づきます。ある時は「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません」(ローマ書 12章14)と祈るのです。先ほども話ましたがパウロはことごとくユダヤ人に迫害を受けてきたのです。その「ユダヤ人の祝福を祈ってください」と、相手に求めているのです。ある時は「夫婦は互いのために祈ってください」(一コリ7:4-5)と求めますし、弟子のテモテには、「王や政治家のために祈ってください」(一テモ2:1-2)と祈りを求めています。さらにパウロは言うのです、祈りというのは、その人の内にある「霊が祈っている」(一コリ 14:14)。そして、祈る人は「祈りによって聖なるものになる」と告げています(一テモ4:5)。わたしたちキリスト者は、祈り祈られる関係において、聖なるものとされていきます。
コロナ渦の中で互いに会うことが難しい状況があります。このような状況で「祈ってください」というのは、神様の呼びかけではないでしょうか。私たちが遠慮から一歩踏み出して、祈りを求めることは、信頼されている喜びを相手に生み出します。そうした愛の良いわざを行うことは、神の栄光を表すことになるでしょう。それを祈り合うことを通して、求められているのではないでしょうか。
先日、教会の仲間が引っ越しをするので、お手伝いをしました。小さい車に荷物を詰め込んで、教会のみなさんと荷物を運んだのです。荷物を運び終わって「これから友人の新しい生活が始まるのだな」と思いました。一緒に手伝っていた人から「祈ってください」と言われたので私はそこで祈りました。無事に引っ越しができたことと、新しい生活を祝福してくださいと祈りました。ついさっきまで空っぽで何もなかった部屋に、家具が運ばれて、最後に皆さんと祈った時、そこに息吹が吹き込まれたように思いました。イエス様は、「わたしの家は、祈りの家」だとおっしゃいました。友人のその家はイエス・キリストにある、聖なる住み家になるのだと思いました。「兄弟たち、わたしたちのために祈ってください」。祈ることを通して、神の栄光を表していきましょう。
お祈りしましょう。