松本雅弘牧師
マタイによる福音書4章1~11節
2021年3月7日
Ⅰ.はじめに
今日は「神のひとり子を信じます」という告白が、クリスチャンである私たちにとって、どのような意味を持つ告白なのかについて、御一緒に考えてみたいと思います。
Ⅱ.悪魔の誘惑
『コロナの時代と僕ら』の著者、P・ジョルダーノは、消費行動に駆り立てられた私たち人間が、その欲望のままに「藪」をつつき回ってきた結果、そこから飛び出してきた「蛇」こそが、コロナウイルスであり、今回のパンデミックなのだ、と語ります。木曜日に3.11を迎え、あれから丸10年になりますが、東北を襲った大地震、続く福島原発事故。思えば、そうした悲劇もジョルダーノの言葉に照らしてみる時、それはどこか深いところで人間の消費行動と深い関係があることに気づかされる思いがするのです。
今日の聖書で悪魔は神の子である主イエスに向かって、「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と語りかけました。AIの時代と言われ、不可能なことは何もないと錯覚させる時代にあって、自分たちの生活をより豊かに出来る、快適にすることが可能なはずだ、いや、そうでなければならない、という囚われに突き動かされているのではないでしょうか。私たちのそうした願いは必ず満足させられなければならないという誘惑です。
ところで、今週の礼拝のポスターをご覧になったでしょうか。崖の上に両手を広げて立っている人の姿です。向こうには美しい太平洋が広がっています。そして次の写真を見ますと、自分の番を待つ若者たちの長蛇の列です。場所はニュージーランドのロイズ・ピークという、絶景インスタ映えスポットだそうです。北村さんが考えたポスターのキャッチコピーは「どうして『映え』たいんだろう?」です。ニュージーランド観光局は、SNSに感化された写真ばかりを撮らないよう、旅行者に求めるキャンペーンを始めているそうです。
なぜこのスポットを訪れるのか?「どうして『映え』たいん」でしょう?一人でも多くの仲間から「いいね」を貰いたい…。心の奥底にある承認欲求が私たちを、そうしたことへと駆り立てるのです。主イエスが経験した2つ目の誘惑は、まさにこの承認欲求をくすぐる誘惑だったと言えるでしょう。悪魔は「神の子なら、飛び降りたらどうだ」、と提案しています。
高い塔から飛び降りれば、その評判は一気に広まることでしょう。当然、主イエスは神の子なのですから、飛び降りた後、天使たちの手に抱かれ傷一つ負わずにいたら、瞬時にして群衆、世間の関心を掴むことが出来たでしょう。それを誰かがインスタグラムやフェイスブックに投稿し、あるいはツイートしたならば、大勢の人が「いいね」し、その投稿は拡散したに違いない。仮にそうだとすれば、これから始まる主イエスの宣教活動もスムーズに進むことになります。悪魔はそこを突いて来きた。「神の子なら、飛び降りたらどうだ」。
そして止めの誘惑が8節と9節に出てきます。「(神の子なら)、すべての支配を手にしたらどうか」。「影響力のあるなしで、あなたの価値は決まりますよ」という誘惑です。
ヘンリ・ナウエンの、『静まりから生まれるもの―信仰生活についての三つの霊想』という書物があります。そこにこのような言葉がありました。「…実のところわたしたちは皆、自分自身の人生の意味や価値を、自分のこのような貢献度によって測ろうとしています。…何か意味のあることをしたいとする願望は、それだけに終わらず、自分がしたことの結果を、自分の価値を測る物差しにしてしまうことが多いのです。そうすると、何かを成し遂げたと言うだけでなく、自分の成し遂げたことを自分自身だと思うようになってしまいます。」
Ⅲ.「いちじくの葉っぱ」がなぜ必要?
創世記3章を見ると、最初の人間アダムとエバが、悪魔の提案に耳を傾け、それを実行に移した途端、彼らに何が起こったかと言えば、神が予告した通り、彼らは自らに死を招くことになったことが記されています。聖書における死とは関係の断絶です。神との断絶、隣人との断絶、そして自分自身との断絶です。その結果は、すぐに現れました。いちじくの葉っぱです。人間は、自分を恥かしいと感じ始めた。あるがままの自分を受け入れることの出来ない者となったのです。現代の心理学用語を使えば、低いセルフイメージに苦しむこととなった。セルフイメージが低いと当然、人間関係の中でストレスを覚えます。自分を良く見せようと背伸びし、何かで飾り、あるいは隠す。人によっては自分を支え守る「いちじくの葉っぱ」は異なることでしょう。SNSのフォロー数であったり、高価な持ち物であったり、肩書きや実績や経歴であったり…。しかも創世記では、アダムとエバと言う夫婦の間柄にさえ、いちじくの葉っぱが持ち込まれていく。でも、これが私たちの現実なのではないでしょうか。
神さまから離れてしまった人間は、「あなたは愛されるに値しない」という声が常に心の奥深くから聞こえて来るものです。不安感に襲われ続ける(信仰告白7.05)。この不安を解決する手っ取り早い解決法が、悪魔が提案した物の所有、世間の評価、影響力の獲得でしょう。最近、こんな言葉と出会いました。「今までわたしは、正しいことを、まちがった動機でおこなってきた自分に気づいた。」ドキッとしました。さらに読み進めると、「自分が何かをしているとき、ほんとうは何をしているのかを知るという(もう一つの)課題がある」と書かれていました。私たちは、何で物を欲するのか。どうしてインスタ映えする写真をアップしたいのか。いや、信仰に関わることでさえも、もしかしたらそうかもしれません。いつしか無意識に何かをしている時、いったい私は、何を求めて、それをしているのでしょう。
Ⅳ.神の子であり、何かをして神の子になるのではない
もう一度、マタイ福音書に戻りたいと思います。主イエスが悪魔に放った、最後の言葉に注目したいと思うのです。「あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ」。一言で言えば、神さまを礼拝せよ、ということです。悪魔の試みを受ける直前、主イエスは断食し祈っていました。もっと言えば神を礼拝していたのです。私たちが礼拝で御言葉をいただくように、主イエスも神の言葉を思い巡らしたに違いない。その御言葉が4章の直前に出て来る、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神の言葉です。たとえ悪魔や周りの人が何と言おうと、自分は神の子であり自分を愛してくださる神のものなのだ、という恵みの現実を宣言する御言葉を味わっていたのです。何かをしたので、何かが出来るので、みんなが注目するから神の子になったのではないのです!すでに神の子なのです!doingがその人のbeingを決めるのではないのです。その逆なのです。これこそが、私たち一人ひとりに向けて語りかけられている、大切な聖書のメッセージなのです。
神の子となる資格は神によって与えられるもので、決して血肉によるのではなく私たちの頑張りや努力によるのでもない。それは賜物であり恵みとして授かるものなのです(ヨハネ1:12-13)。私たちは、神さまの子どもなのです。悪魔が何と言おうと、また人さまがどう見ようと、私たちは神の子です。そして神の子であるとは、この私を愛してくださる神さまのものとされた、宝物とされたということなのです。私たちは元々、神のかたちに似せて造られたものです。ですから神さましか埋めることのできない空洞がある。神さまを知らない時、いや知った後でも、しばしば悪魔の囁きに耳を貸し、必死になって何かを求めているかもしれません。でも冷静になって振り返るとき、私が本当に欲しているものは何でしょう。本当に必要なものは何でしょう。それは神様ご自身、神さまの愛なのです。そのお方に承認され、無条件に受け入れられ、愛されていることを実感したいのです。
ですから、私たちがすべきこと、特に誘惑を感じた時にすべきこと、それは神のところに逃げていき、その御前に心を静め、そのお方の無条件の愛を深く味わうことです。主イエスが40日40夜、黙想した、「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」との御言葉を、聖霊の助けをいただきつつ味わい、心に刻むことなのです。
私たちが主イエスを神の子と信じる信仰に生きるということは、私たち自身も神の子の恵みと特権の中に置かれていること、そこを出発点として、そこを足場として生きていくことなのです。お祈りします。