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主日共同の礼拝説教

主イエス・キリストを信じます―使徒信条⑦

松本雅弘牧師
出エジプト記32章1~6節
マタイによる福音書16章13~20節
2021年3月14日

Ⅰ.はじめに

クリスチャンになる前、「イエス」が名前で、「キリスト」は苗字(ファミリーネーム)だと思っていました。そうではなく、ギリシャ語の「キリスト」とは称号、ヘブライ語では「メシア」、「油注がれた者、メシア/救い主」という意味です。使徒信条において、「主イエス・キリストを信じます」というのは、2千年前にベツレヘムで生まれ、ナザレで育った「イエス」という名の人を「メシア/救い主」、すなわち「キリスト」と信じます、という告白です。
今日、読ませていただきましたマタイ福音書からの箇所には、まさにペトロがこの告白をしたことが紹介されています。

Ⅱ.ナザレのイエスは何者なのか?

ここで主イエスは弟子たちに向かい、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになりました。それに対して弟子たちは、「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の1人だ』と言う人もいます」と応えました。考えてみれば、「洗礼者ヨハネ」、「エリヤ」、そして「エレミヤ」、どれ一つ取っても、人間として受ける最高の評価です。そして現代に至るまで、「ナザレのイエス」、ベツレヘムで飼い葉桶に生まれ十字架に掛けられて死んだ、ひとりの男に対し、本当に様々な評価がなされてきました。
ところで、ナザレのイエスを聖人と考える人、偉大な宗教家、または人生の教師、社会改革者と考える人もいるでしょう。多かれ少なかれ誰も最初はそのように考え教会の門をくぐるのではないでしょうか。ただ礼拝に出席し聖書の言葉に耳を傾け、教会の人たちと触れ合う中、次第に〈あれ、様子がおかしいぞ〉と始まる。何か違うことに気づく。そして人々は去っていく。ある牧師がこんな風に語っていました。「“人生の教師”としてイエス・キリストを見、“人生の学校”として教会をとらえる人は、やがて卒業して去っていく。」
教会学校の先生が私に、こう話してくださったことを今も覚えています。世の中には偉人と呼ばれる人はたくさんいる。そうした人たちは「ここに道がある、これが真理だ」と人として歩むべき道、真理を指し示す。でもナザレのイエスだけは違う。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ14:6)とご自分が道そのもの、真理そのもの、命そのものと言い切る。そうです。信仰に与る者はある時、この事に気づき、視点の転換が起こるものです。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」
考えてみれば、これはとてつもない発言です。教会に導かれた者は、イエスのこの言葉が本当かどうか。人生のどこかの時点で真面目に向き合うように招かれていると思うのです。イエスは単なる大嘘つきか、その発言のままのお方かどうか…。もし大嘘つきだけの男であるならば、礼拝に集うことは無意味ですし時間の無駄です。気休めにしか過ぎない。でもそうでないならば、主イエスのこの発言は聞く者たちに、ある種の態度決定を迫る発言となります。ここで求められるのは、周囲の者がどう言っているかではありません。自分の家がクリスチャンホーム、親がクリスチャンである、あるいはミッションスクールを卒業した、そんなことを聞いているのではないのです。主イエスが聞きたいこと、それは「あなたはわたしを何者だと言うのか」ということ。それをあなたの口から聞きたい。あなたの考えを、その考えに基づきどう生きていくのか、生きて行きたいのかを聞きたいのです。

Ⅲ.恵みの契約によって神との生きた関係が始まる

ところで、以前、高座教会にも来られたことのある千代崎秀雄先生が、洗礼を受ける際の信仰の告白は結婚の誓約に似ている、とおっしゃっていました。どこがどう似ているのか。先生曰く、「健やかな時も病む時も」とあるように、調子のよい時だけではなく、どんな時にも相手に対する誠実さを保つ誓いでもあるからだ、というのです。確かに聖書は神と私たちとの関係を結婚にたとえて教えます。あの出エジプトの出来事の後、エジプト王ファラオのくびきから解放された人々はシナイ山において神と契約を結びます。言わば、「結婚の誓約」をするのです。この時から正式に神の民イスラエルとなります。そしてその結婚関係が守られ、祝福された関係となるために与えられたのが十戒を中心とする律法です。結婚の契約関係に入ったのは、律法を守った結果ではありません。あくまでも律法は「神の民たる者/主の花嫁たる者はいかにあるべきか」を示すものです。特にカンバーランド長老教会ではこの契約関係を「恵み」と呼びます。これとは対照的なのが一般的な契約関係です。この4月から新社会人になる方もあることでしょうが、就職で「試用期間」という時期を設ける場合があります。まずは試験的に採用してみる。そしてよく働けることが分かったら本採用となる。イスラエルの民の場合はそうではない。最初から本採用なのです。その証拠に、律法は神の民として本採用された後に与えられている。この順序が大事なのです。実は、シナイ山において恵みの契約を結んだイスラエルの民、最初から本採用でした。しかしその彼らが、その律法を早々と破るという大事件が起こります。今日、お読みしました出エジプト記32章の出来事です。金の雄牛の像を作って、「これがあなたがたの神々だ」と言って、祭壇を築き、お祭り騒ぎを始めたのです。預言者ホセアの言葉を使うならば姦淫の罪を犯したのです。結婚なら破談もの。会社でしたらクビになっても当然のような事件です。しかし契約は取り消さなかった。この金の雄牛の像の事件こそ、後のイスラエルの歩みを象徴するような出来事でもありました。花嫁イスラエルは繰り返し律法を破ります。しかし、にもかかわらず、主なる神は彼らを赦す。結婚関係、自らが結んだ恵みの契約に誠実を尽くしたのです。ただ、そのために、主なる神はどれだけ心を痛めたか。犠牲を払ったか。贖いの血が流されたか。執り成しの祈りや労が捧げられたか。そうした一つひとつの労苦は、新約に至り、最終的には十字架の贖いにつながっていくのです。
この時の主イエスの問いかけ、「あなたはわたしを何者だと言うのか」、この問いかけは、正に恵みの契約への招きの言葉なのです。これに対し私たちを代表しペトロは、「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白したのです。私たちで言うならば、そのように告白し洗礼へと導かれ、神との生きた関係が始まっていくのです。

Ⅳ.私たちを宣教の業へと導いていく告白

さて、ペトロのこの告白に対して主イエスは大変喜び、「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ」とおっしゃった。そして、「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」と言われたことが記されています。私たち自身の信仰の告白を振り返ると、その背後に必ず神さまの導きがあったことを知る。見えざる神の導きがある。つまり一方的な恵みの出来事であることを知らされるのです。さらに主イエスは続けて「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」と語られました。キリスト教会には、主イエス・キリストから地上における天国への入り口としての重大な使命を与えられている。そのことにも畏れと不思議さを覚えさせられます。ともすると、神さまからいただいた恵みが当然となり、驚きも感謝も薄れ、天国の「鍵」も自分でコントロールの利く「自分のもの」と思い込む時に、キリスト教会は傲慢に陥り、塩気を失うのではないでしょうか。
今日は、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」、という主イエスの御言葉を何度か読ませていただきました。主イエスはそのようなお方です。それゆえ使徒信条をもって、「主イエス・キリストを信じます」と告白する時、信じるお方が救い主なる方ですから、これからも真面目に宣教の業に励まなければならない。とくに愛する家族の者たちと一緒に、地域に住む仲間と一緒に、これから後も、神の国の恵みのなかに歩んで行きたいからです。お祈りします。