杉本 巌 神学生
ヨハネによる福音書13章3~8節
ペトロの手紙一5章6節
2021年3月21日
1. 高座教会での一年間
高座教会に遣わされておよそ一年が経ちました。その間、自分達の集会を保つことも難しい中にあって、私たちを迎え入れてくださっている高座教会の皆さんに、感謝を申し上げたいと思います。昨年度来、私たちの想いと意識の多くはコロナウイルスの対策へと向かい、その中で私たちはこのコロナウイルスとどのように生きるべきかという事が大きな問題となってきました。
しかしある時、ふとコロナウイルスの影響や自分の身の周りのことだけではなく主事室スタッフや、長老の方々、教職の先生方の事を思う機会を与えられました。
このような状況であるにも関わらず、多くの方々が教会を建て上げようとしている。ただ、自分の礼拝を守るだけではなく、今できる最善を尽くして他の方の霊的なケアをしようとしている。その姿を見せていただいた時、私はこの一年間、高座教会で真に学ぶべきこと、教会とはどういうものなのかという事を改めて、示されました。
2. 受難節に想いを馳せること
私たちは、今、自分たち自身もまだまだ困難が続く中での、受難節をすごしています。私たちは本日、この受難節の時に私たちの主であるイエス様がどのように振る舞ったのかという事を、共に見ていきたいと思います。
イエス様は本日の聖書箇所のうちで「ご自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟った」、と書かれている。受難節に入り、イエス様の地上での生涯の終わりの時が間近に迫っていました。人生の最後の時と言うのは、その人の生き方が現れるものですが、イエス様が公生涯の最後に選ばれたのは、弟子たちと共に食事をし、そして弟子にひれ伏して足を洗って教える事でした。
今でも人にひれ伏すという行為は、自分の立場を低くすることを意味しますが、当時、身をかがめて足を洗うという事は奴隷が高貴な主人をもてなす際に行う行為でしたから、恐らく弟子たちの多くは本当に戸惑ったのではないかと思います。
その為に、シモン・ペトロは「わたしの足など、決して洗わないでください」と言います。イエス様に対する尊敬の想いが溢れての言葉でしょう。ここでは、ペトロの名が記されていますが、他の多くの弟子たちも恐らく、共通の想いでいたことだと思います。
しかし、イエス様はペトロにこう返答します。「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」
イエス様に対して、尊敬の念を込めての発言をしたペトロは、突如として冷や水をかけられたような驚きに満たされました。そして、イエス様のこの言葉にペトロは急いで、言葉を翻します。
一方で、この「足を洗う」という事の意味が、それほどまでにイエス様にとって大切なことだったことが伺えます。何故、この足を洗うという行為はなぜ、それほど大切な行為だったのでしょうか。この時、足を洗う事は単に奴隷や召使が主人に対してもてなすという事だけではなく、むしろ人々の罪の為の贖いをすることを意味するものでもあったからだと聖書学者たちは解釈しています。
その意味でペトロの発言は意図していなかったにせよ、自分自身での救いの達成や、自分は神様の力に頼らなくても何とかやっていけるものである、仕えて頂く必要などはないという人間の傲慢さの象徴でした。
3. ペトロにとってのへりくだり
本日、もうひとつ指定させていただいた本日の聖書箇所は、今年度の高座教会のテーマ聖句で、ペトロの手紙第一5章6節です。聖書の中の2通のペトロの手紙は、聖書学者によれば、ペトロの最晩年のものであると考えられます。
ペトロの手紙の5章の手紙の挨拶には「バビロン」すなわち、当時の様々な放埓や、あらゆる悪の中心地であるローマにいることが示されており、ペトロはその地で迫害によって、亡くなったと言われています。
ペトロはその最晩年に神の力強い御手の下で、自分を低くすることを勧めています。
それは何故かと言うと、この聖句の前後を見るのであれば、それはキリストがまさにそのように、この地上での生涯を歩まれて、そして、その生涯の最後に私たちの初穂として、復活され天に昇られたからです。この手紙を書いた時、ペトロの目には、自分の若い時に歩んだ、イエス様の地上での生涯が頭にあったと思います。
とりわけその時、頭にあったことはイエス様がご自身の死の直前にまで、自分を低くされ、受け入れられ、弟子たちの足を洗ったその姿勢だったと思うのです。
ペトロは最晩年になって、後世のクリスチャンたちにへりくだることを教え、互いに愛し合う事を教えました。あるいは迫害の中での自分の死も見えていたかもしれません。
そんな時に、ペトロは多くの兄弟姉妹たちに、自分を低くすることを伝えました。まさに、主イエス・キリストが最後にそのことを残されることを望まれたからです。
4. 私たちはどう生きるか?
私たちは、この与えられている時をいかに生きるべきでしょうか。どのように、日々を生きるべきでしょうか。へりくだって歩むこと、誰かの足をイエス様に倣って洗ってあげる事、私たちに負い目のある人を赦して身を低くすることが今、望まれている様に思います。互いが互いの為に愛せるならば、その想いはイエス様にもまた愛され、来る日に高く引き上げて頂けるのではないでしょうか。
そうすれば、私たちはイエス様のように引き上げられるのだという事を伝えました。なぜなら、それこそがペトロ自身において経験したことであり、イエス様に倣う事だったからです。私たちもイエス様に倣って日々を歩みましょう。そして、謙遜さをお互いに伝えあう、そうした歩みを今週も、またしていこうではありませんか。(※「今週もまた、そのような歩みを進めていこうではありませんか」、「今週もまた、そのような歩みをしていこうではありませんか」と、「歩みを」と「していこう」の間に言葉が入らない方がつながりやすいように感じました。お祈りをいたします。