和田一郎副牧師
詩編86編11~17節
テサロニケの信徒への手紙二3章3~5節
2021年3月28日
はじめに
今月私たち夫婦は結婚7周年を迎えました。しかし、時々喧嘩にもなります。ほとんどの喧嘩がゆっくりしている妻に対して、私は「もっと早くもっと効率よく」とイライラして喧嘩になることが多いのです。また、3歳の息子はなんでも自分でやらないと気が済みません。夫婦の関係も子育ても、早く、効率よくということは当てはまらないと最近思いました。今日は皆さんとテサロニケの手紙から御言葉を分かち合っていきたいと思います。
Ⅰ.今を生きる
今日の聖書箇所3節でパウロは「しかし、主は真実な方です。必ずあなたがたを強め、悪い者から守ってくださいます」と記しています。前の節でパウロは、自分たちが迫害を企てる悪人どもから守られるように祈ってください、と伝えました。そして、今日の箇所では、自分たちを守ってくださる神様は真実な方ですから、テサロニケの信徒たち、あなたがたのことも、必ず守ってくださる。そして、これまで自分が命じることをテサロニケの人々は現に実行しているし、これからも実行してくれると確信している。と言うのです。パウロがこれまで「命令してきたこと」とはいったい何でしょうか。
テサロニケの手紙は1と2があって、二つの手紙は間をおかずに続けて送られたと言われています。この中でパウロがテサロニケの人々に教えてきたことの一つは、再臨の正しい理解です。再臨は、いつかまたイエス・キリストが来られて、キリストの裁きを受けたのちに、キリストが神の国をこの地上に打ち建ててくださることです。それは私たちクリスチャンにとって喜ばしい時です。しかし、それが、いつ来るのかは分かりません。ところがテサロニケの人々の中には、再臨の時がいつ来るのかと気にしてばかりいて、問題になっていました。そんな彼らをパウロは戒めたのです。パウロは次のように教えました。
「あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら、今、私たちは生きていると言える」(テサロニケの信徒への手紙一3章8節)と教えたのです。
彼らにパウロが命じたことは「今を生きる」ということです。いつ起こるか分からないことを気にして生きるのではなく、もっといい生活があるはずだと、今をおろそかにするのではない。再臨の希望を心に留めながら、今をどう生きるのかをパウロは示しました。
少し話が脇にそれるようですが、来週から使う「聖書協会共同訳」では、今の聖句は「私たちは今、安心しています」と訳されていて「生きる」という言葉が抜けていました。しかしギリシャ語の原文では「生きる」という言葉があるので、新共同訳の「今、私たちは生きている」という訳の方が原文に忠実だと思います。パウロがこのテサロニケの手紙で教えていることは、再臨の理解をしっかり説明したうえで、今をしっかり生きるということです。
「メメントモリ」という言葉があります。「死を覚えよ」という意味です。命に限りがあることを心にとめて、今を生きることに目を向ける言葉だそうです。パウロはこの手紙の中で、再臨の時を心にとめて、今を生きることを勧めています。それを「聖なる者となる」とか「主に倣う者になる」と表現してきました。今をどのように生きるのかという具体的な教えが、みなさんもよく耳にする、テサロニケ第一の手紙5章の言葉です。
「兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。すべての人に対して忍耐強く接しなさい。だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい。いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」(テサロニケの信徒への手紙一5章14-18節)。
このように、今を生きることをパウロは教えているのです。今私たちは生きている。キリストの命を生きています。それはキリストの復活の命であり、永遠の命に与って生きることを意味します。生けるイエス様と今、共に生きるということです。
「生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられる」(ガラテヤの信徒への手紙2章20節)。それが、今日の聖書箇所4節で、パウロがテサロニケに人々に命じてきたことの意味です。これはキリストの復活を理解するうえでも、クリスチャンとしての自覚を考える時にも、そして福音という良い報せの意味を知るうえでも大切なことです。
Ⅱ.キリストの忍耐
続いて、今日の聖書箇所5節で「神の愛」と「キリストの忍耐」とを悟りなさいとパウロは結んでいます。これはイエス様をまだ信じていない人を、信じて救われるように待っているという忍耐です。キリストの忍耐について、パウロはローマ書で次のようにのべていました。
「滅びることになっていた怒りの器を、大いなる寛容をもって耐え忍ばれた・・・」
(ローマの信徒への手紙9章22節聖書協会共同訳)
とありました。パウロは、イエス・キリストをまだ信じていない不信仰な人たちを「大いなる寛容をもって耐え忍ばれ」ているというのです。それがキリストの忍耐です。イエス様が話された「ブドウ園の労働者と主人」の話が、このことをよく表していると思いました。
Ⅲ.ブドウ園の主人の忍耐
あるブドウ園の主人が、農園で働く労働者を雇います。最初は夜明け行って一日1デナリオンで雇います。次に9時に広場に行くと、まだ人がいたので雇います。さらに同じ条件で12時、3時と広場に行って雇った。最後に夕方5時ころにまた行くと、まだ人がいた。主人は、この人たちもブドウ園に送り込んだ。夕方になって主人は、最後に来た者から順番に報酬を払うように命じた。5時から働いた人に1デナリオンが支払われた。途中から来た人にも、朝一番から働いていた人にも同じ1デナリオンを払いました。当然のようにクレームが出ました。早朝からフルに働いた人は「何で最後に少ししか働いていない、彼らと同じ報酬なのだ」と言います。けれども、主人は約束を破っていません。「友よ、あなたは私と1デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。」という話です。
気前の良い主人は、神様に譬えられていて、神様が与えてくださる恵は、働く時間の長さや、仕事の質で測ることをなさらないということです。信仰生活が50年であろうと、数日間の信仰生活であっても神様の恵は同じです。
洗礼を受けたばかりの頃の私は、どう考えても不平等だと思えて理解できませんでした。しかし、それだけこの話は、人間的な価値観と神様の価値観が違うという典型的な話だと思います。私が思うには、ブドウ園の主人は朝一番で仕事を探している人全員に来てほしかったのだと思います。でも呼びかけに応じた人は一部の人だったのです、ですが主人はまた広場に行きました。一日に何度も「ブドウ園で働かないか?」と呼びかけに行ったのです。もしかしたら、呼びかけたのに応じないで様子を見ている人も、いたのではないかと思うのです。そんな人もいるのを承知で、主人はまた呼びかけに行った。しかし、主人は「何でまだ来ないんだ!」とイライラして我慢して呼びかけに行ったのではない。大いなる寛容をもって耐え忍ばれて呼びかけに行った。そして最後に、気前良く支払いをしてくださる、それが神の忍耐です。
いつものブドウ園の労働者のたとえ話を、ちょっと違った解釈からお話をしましたが、これは自分の経験からも思わされます。私は小さい時から親と一緒に教会に行く機会はありましたが、決して自分から教会に行くことはしなかった。呼びかけに応じなかったのです。社会人になってから信仰を持つことができました。それまでイエス様は本当に忍耐してくださったのだなと思います。キリストの忍耐によって生かされている。その寛容な忍耐に今とても感謝しております。
先週、長年教会学校の奉仕をされている姉妹と話しをする機会がありました。その姉妹は、教会付属のみどり幼稚園の先生もされていたそうです。その卒園生にずっとクリスマスカードを送っていると聞きました。最初の生徒さんは、今60歳を過ぎたと聞いて驚きました。今も毎年、聖書のみ言葉が書かれたカードを送っているそうです。中には信仰をもっていない人もいて「先生が送ってくれたカードの御言葉と同じ言葉が、近くの教会に張り出されていました。それで久しぶりに聖書を開きました」というお便りが来たそうです。信仰をもつか持たないかは分かりませんが、ひたすら何十年も御言葉付きのカードを送っている。その姉妹は「いつになったら信仰をもってくれるのかな?」とイライラしてカードを送っているのではないのです。「自分は本当に恵まれている」と話していました。
その姉妹の話と、ブドウ園の主人が呼びかけ続けていたこと、神様が再臨の時まで、寛容な忍耐をもって救いに招き続けている、忍耐の意味が分かるような気がしました。
パウロは、そのキリストの寛容な忍耐を悟りなさいとテサロニケに人々に伝えています。迫害など、いろいろと問題があって宣教が進まなくても、キリストは寛容に忍耐してくださるから、焦らずに、しっかり今を生きて福音を伝えなさいと教えているのです。
神様は、悪をもって悪に報いてしまう、私たちのことを知ってくださいます。弱い人を支えられない、いつも喜ぶことができない、祈ることができない、感謝を忘れてしまう私たちの弱さを知っていてくださいます。そのように今を生きるということができない、私たちの欠けを知っていて、それでも今も寛容をもって忍んでくださっています。神の愛、キリストの忍耐を悟り、今、与えられている中で、生きていきたいと思うのです。
お祈りをいたします。