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主日共同の礼拝説教

きょうだいとなるために

和田一郎副牧師
詩編133編1-3節 、テサロニケの信徒への手紙二3章6-15節
2021年4月25日

今日の説教題は「きょうだいとなるために」です。もちろん教会の兄弟姉妹のことです。キリスト教会では信徒同士が兄、姉、兄弟、姉妹と呼ぶ伝統があります。神様を父と呼ぶことができて長男はイエス様です。それに続く兄弟姉妹が私たちで、これが神の家族です。今日はパウロが書いたテサロニケの信徒への手紙から、「きょうだいとなる」ことについて、考えていきたいと思います。

Ⅰ.「きょうだいたち」

6節「きょうだいたち」は、先月まで使っていた「新共同訳」では漢字で兄弟と書かれていましたが、新しい協会共同訳では平仮名で書かれています。テサロニケ教会の信徒は、男性も女性もいました。新しい聖書では現代の感覚として差別的であったり、不快に感じる表現が改められました。きょうだいの意味が男性を特定した箇所もあるので、そこには漢字で「兄弟」と書かれています。聖書は男性優位に書かれていると言われる方もいます。聖書の中の時代も、キリスト教会の伝統の中でも男性優位の文化があったことは否めないことだと思います。しかし、創世記において神様が人間を造られた時「男と女に創造された」(創世記1章27節)と、男女は同じように造られました。同じように「神のかたち」に造られました。その後、女が男の「助け手」として造られたとありますが、それは、男と女の主従関係を表しているのではありません。
カンバーランド長老教会には女性の長老も女性の牧師もいます。互いの賜物の違いを受け入れて、同等に扱われていくというのは、これからの時代に必要なことです。
6節にもどりますが、パウロは、テサロニケ教会には教えに従っていない人がいると指摘しています。イエス様が再び地上にやって来る再臨の時が、間もなくやって来ると信じて、コツコツと仕事をする必要がないと怠けた生活をしている人たちです。教会の経済を一部の人たちが負担を負って、間違った考え方から不公平を生んでいるとしたら問題です。パウロはここで厳しい言い方をしていますが、それには理由がありました。パウロがかつてテサロニケに滞在している時、テント作りの仕事をしながら宣教の働きをしていたのです。本来ならパウロのような伝道者は、経済的なサポートしてもらうことができました。イエス様も「働く者が食べ物を受けるのは当然である」(マタイによる福音書10章10節)と言いました。しかし、パウロがあえて働いていたのは、模範を示すためでした。働く尊さを知ってもらいたかったからです。テサロニケの手紙には「働く」ということが再三でてきます。10節に「働こうとしない者は、食べてはならない」という言葉があります。これは「働かざる者、食うべからず」という諺を生みました。
しかし、働く者は食べてよくて、働かない人は食べてはいけない、という意味ではありません。景気が悪くて仕事がない人や、健康の問題があって働けない人もいます。聖書に書かれている意味は、働けるのに働こうとしない人に向けてパウロは言っているのです。

Ⅱ.労働

働くことは信仰生活の中で重要なことです。創世記を見ると、人間に与えられた最初の仕事というのは、神様が創造し「良かった」とされた世界を治めることでした。
創世記1章28節「産めよ、増えよ、地に満ちて、これを従わせよ。海の魚、空の鳥、地を這うあらゆる生き物を治めよ」とあります。この箇所も以前の聖書では、「支配せよ」とありましたが「治めよ」と改められました。かつて人間が自然を自由に扱ってよいという解釈があって、自然破壊や動物の乱獲などが黙認されてきました。辞書を調べましたが、日本語の「治める」という言葉は「乱れているものを平定する」「整った状態にする」という意味合いが多くある言葉です。神様は天地を創造されましたが、その被造物を整った状態に治める働きを、人間に委ねたのが創世記1章28節の意味です。この箇所を「文化命令」とキリスト教会では呼んできました。神様からの命令ですから、神の代理人として治めることが私たち人間の仕事でした。続く仕事はエデンの園を耕し、守ること(創2: 15)、そして被造物に名前をつけること(創2:19)でした。名前を付ける仕事というのは、人間が被造物一つ一つを認めて、受け入れて、理解し治めることを意味します。名付け親になったことはあるでしょうか。名前を付けると責任を感じて見守ってあげようという気持ちが起こります。人間が名前を付けた動物を見守ることを意味します。
エデンの園を耕すことは種を蒔いて育てるためです、さらに「守る」とありますが、守ることは整った状態を維持することになります。支配することとは随分違う働きです。つまり、人間の労働はこの世界に秩序を与えて発展を助けること。それは昔の話ではありません。今の、私たちの仕事も同じです。地上を治めることは、神様の働きです。命を育てるのは神様の仕事であり、この神様の仕事に人間が招かれたのです。人間の労働は、本来神様がなさるはずの仕事を神様に代わって、させていただくという喜びに満ちたものです。
神様はこの仕事を一人の人間だけに、任せたのではなかったことが分かります。同じ神の「かたち」を持つ女を創り、二人が協力して使命を達成するようにされました。女は男と同じ神のかたちを持っています。男に従属させられては、女性の中の神のかたちに傷が付きます。互いの個性、賜物、人格を支配しては、神のかたちに傷がつく。それが、人が人を大切にする、隣人を愛することの根源的な意味ではないでしょうか。その基盤があって、働くことを通して人格的な交わりを育てていくことを神様は望んでおられます。
テサロニケの手紙にもどりますが、パウロは、自分から率先して働く姿を見せて、そのことを示しました。

Ⅲ.戒規

しかし、パウロが再三にわたって働くことを命じても、従わない者たちがいたようです。14節「もし、この手紙で私たちの言うことに従わない者があれば、その人とは関わり合わないように気をつけなさい」とあります。教会は神の家族だと言っても、秩序を整える必要があります。その時に用いられるのが「訓練規定」とか「教会戒規」というものです。カトリックでもプロテスタントの教会でも、秩序を保つための規定を設けています。カンバーランド長老教会では「訓練規定」と呼んでいて、助言から始まって、戒告、資格停止などがあるのです。しかし、罪を犯した人を処罰したり、追いだすことが目的ではありません。15節にあるように「その人を敵とは見なさず、きょうだいとして」とありますが、その人が悔い改めて、再びきょうだいになる事が最終目標です。このような対応をとる根拠というのがマタイによる福音書18章でイエス様が教えてくださった対応です。
「きょうだいがあなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところでとがめなさい。言うことを聞き入れたら、きょうだいを得たことになる」(マタイ18章15節)とあります。訓練規定は「言うことを聞き入れて、きょうだいを得る」ことが目的です。悔い改めを待ってくださったイエス様に倣って、きょうだいとなることが目的です。

Ⅳ. きょうだいとなるために

今回聖書箇所でパウロがしていることは、牧会のことだと思いました。
牧師の「牧」と教会の「会」で「牧会」と言います。辞書には「信徒の魂の配慮をし、信仰と生活を導くこと」とありました。パウロは、自ら仕事を実践して働く意義を示したり、間違った生活をしている人を戒めて、牧会しているのです。まさに創世記にあるように、支配ではなく教会を「治める」ということをしているのだと思いました。
かつて、私が神学校に行っている時に牧会について学んだことがありました。神学校は全寮制なのですが、ある学生が重大な規則違反をしたので退学処分になってしまいました。それは、牧師になるために送り出した両親や教会にとってもショックだったと思います。退学処分が決まった時に、寮生が全員集められて、大学の先生から説明がされました。規則違反をした学生が退学処分になったこと、本人は実家に帰ること、そして、帰った地元に大学の教員が行って、両親と教会の牧師に会って、今後のことを相談すると言ってました。私はとてもビックリしました。普通の大学でしたら、退学処分にしたら、それでおしまいです。それ以上は関わらないでしょう。しかし、キリスト教大学では、その後も何度か連絡をとっていました。そして寮でも2・3回そのことで集められて退学した生徒の為に祈りました。そこで先生が言ったのです。「なぜ、こうやってみんなに説明して祈っているのか考えて欲しい」と言ったのです。「君たちは、これから教会に仕えていく。牧師であったり宣教師であったり教会の働きに就いて行く。そのために「牧会するということを考えて欲しいと」言われたのです。その時感じたのは、この学校の先生たちは、学問を教えているのだけれど、それぞれ牧会しているのだなと思いました。それぞれのクラスで牧会マインドをもって教えている。普通の学校と違うと感じていたのは、そこなんだなと、分った気がしたのです。
今日の聖書箇所15節に「その人を敵とは見なさず、きょうだいとして諭してあげなさい」とあります。クリスチャンであっても、罪を犯してしまう時があります。しかし、同じ、神のかたちに造られた者です。
イエス・キリストが十字架で犠牲となってくださったゆえに、偶然ではなく私たちは兄弟姉妹となりました。牧会マインドをもって、きょうだいたちと励まし合っていきましょう。
お祈りいたします。