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主日共同の礼拝説教

ペトロとユダ

松本雅弘牧師
イザヤ書5章7-17節
マタイによる福音書26章69-75節,27章3-10節
2021年5月2日

Ⅰ. ペトロとユダ

今日の箇所に登場するペトロとユダは共に主イエスを裏切ってしまう。ところがその結末が対照的なのです。ペトロは立ち直り、初代教会のリーダーとして、最後にはローマ教会の最初の監督として群れを牧会し、殉教の死を遂げていきました。しかし一方、ユダの方は後悔した末、自らの命を絶つのです。共通点の多い二人だけに、彼らの対照的な結末は、私たちの心に物凄いインパクトを与え続けているかと思います。

Ⅱ. つまずき

ところで、私たちが何かに躓く時、大きな石に躓くよりも、後になって「魔が差した」などと言ったりしますが、思いがけないような仕方において、小さなことと思えるものに躓くことが多いように思います。ペトロの場合もそうだったのではないでしょうか。
「たとえ、皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません」と威勢よく言い放った時、ペトロの心に思い描かれていた場面は何か物凄くドラマチックなものだったのではないでしょうか。剣を抜き合って戦い合うような場面、あるいはユダヤ最高法院のような舞台で、胸を張りながら主を告白し、見事に殉教していくような場面だったかもしれない。
ところが皮肉なことに、そんなペトロが、「あなたはナザレのイエスの弟子だったですよね?!」と、実際、主イエスの弟子としての証しを求められた場面は、決して劇的でも、まして人々の注目を集める華々しい大舞台でもありません。その舞台は大祭司の中庭で、しかも証しを求めたのは召し使いの女性たち、ごく普通の人たちでした。ペトロは三度主を否定してしまいます。

聖書において「三度」というのは「完全に」と言う意味があります。だとすれば、ペトロが三度、主を「知らない」ということはイコール、主イエスとの関係を完全否定したことになる。そして75節、「ペトロは、『鶏が鳴く前に、あなたは三度、私を知らないと言うだろ』と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた」と書かれています。同じ出来事をルカ福音書は、「主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、『今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度、私を知らないと言うだろう』と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。」と伝えていました。
この時、振り向いてペトロを見つめられた。一体、どんな眼差しだったのでしょうか。福音書によれば、主イエスの眼差しに触れたペトロは外に出て、激しく泣いたのでした。

さて、最高法院で主イエスの死刑が確定し、ペトロが三回主を否んだその同じ時刻に、イエスを売ったユダも深い後悔の念にさいなまれていた。ユダの手には銀貨30枚が握られていました。ユダはその金を返しに祭司長たちの集まるところに行ったのです。そして、「私は罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と告白し金を返そうとしますが、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と取り合ってもらえなかったのです。その後の結末は、5節に出て来ます。

Ⅲ. ペトロとユダのちがいはどこに?

ところで私たちは礼拝でマタイ福音書を読み進めてきました。主イエスがお語りになった神の国の福音は、無条件の愛、無条件の赦しです。そうした神の赦しの愛を思う時、いつも心に浮かぶ主イエスの教えが、「一万タラントンの借金を帳消しにされた家来の話」です。一万タラントンとは、六千デナリオンの一万倍です。一デナリオンは労働者一日分の賃金です。そうした額の借金を主人から免除されていたにもかかわらず、たった百デナリオン、労働者百日分の賃金に当たる借金をしていた仲間の家来を赦すことが出来なかった譬え話です。
「七回を七十倍赦しなさい」、言い換えれば、「何べんでも赦してやりなさい」と言われたら、普通でしたら、「それは甘い!そんなことしたら神の義が立たない!その人をスポイルするだけ、その人をダメにしてしまう!」と考えるでしょう。しかしそうした私たちに向かって、「実はあなたこそ、何兆円という巨額の借金を帳消しにされている存在なのです。そのように赦されていながら、どうして仲間を赦せないのですか。徹底的に無条件に赦されているのは、実はあなた自身ではありませんか。それなのに、“無条件に赦したら、その人はダメになる”と、まるで他人事のように言うのですか」、そう言われるのです。

ペトロとユダのちがいってどこにあるのでしょうか。最後の晩餐の席にユダも居て、主イエスは彼の足を洗われました。そう考えると、ユダの存在は最後の最後まで掛け替えのない十二弟子の一人だったのです。後に、その時、同じように足を洗っていただいたヨハネは、晩年になって、こう語っています。当然、ペトロの躓き、ユダの結末もすべてを知った上で、語るのです。「私の子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、私たちには御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。この方こそ、私たちの罪、いや、私たちの罪ばかりでなく、全世界の罪のための宥めの献げ物です。」(Ⅰヨハネ2:1-2)。

ヨハネは、主イエスの十字架は、「私たちの罪、いや、私たちの罪ばかりでなく、全世界の罪のための宥めの献げ物」と明言する。ここで「全世界」と言った時に、その大きな愛の中から漏れる人って、いったい誰なのかと思います。主イエスが十字架にかけられている時、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈られました。つい数時間前にはユダの裏切りがあり、ペトロのつまずきがあった。そうした一切合切を含めて、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈ってくださったのではないでしょうか。

Ⅳ. キリストの真実によって

先日、「道の駅」で、「今、なぜ聖書協会共同訳なの?」というお話をしました。そこでは取り上げませんでしたが、準備をする中、大きな変更があることを知らされました。それは人が義とされる要件を語るガラテヤ2章16節です。
聖書における「義とされる」とは「神と良い関係を持つ者とされる」という意味で、新共同訳も含め従来、「キリストへの信仰により義とされる」と訳すところを、聖書協会共同訳では「義とされるのは…キリストの真実による」としています。
説教の準備しながら、ペトロとユダのことを考え、さらに自分自身のことを考えた時に、義とされるのは、私たちの側のキリストへの信仰の強さや真実さによるのではなく、キリスト・イエスの真実さにかかっている。そちらの方がどれだけ確かなのか、そしてそのことを約束する、新しい訳のこの聖句が心に浮かんだのです。

私たちの側で、神さまの愛を引き出すような、純粋な信仰などないような者であるにもかかわらず、だからこそ藁をも掴むような思いで、何よりも確かな主イエス・キリストの真実にどこまでも頼らざるを得ないのだと思うのです。信仰が強いから弱いからではなく、芥種一粒の信仰でも、主イエスに心を向けて助けを乞うならば、主は真実で確かなお方だから、私たちを救って下さる。もうそれしかないのではないか。だからこそ恵みであり、福音なのではないでしょうか。
確かに私たちは、罪や過ちを犯すならば、現実には蒔いた種の刈り取りを求められ、場合によっては生涯、やってしまったことの償いを迫られることでしょう。しかしそのような場合でも、主イエスご自身が人生の同伴者として蒔いた種の実を一緒になって拾ってくださる。そのように究極的に主の赦しの愛の中におかれている。

晩年のペトロは、祈る度に涙を流していたと言われています。それは心から愛している主イエスを裏切ってしまった自らの罪を悔やむ涙であり、同時にそうであるにもかかわらず、真実を貫き十字架で罪を贖ってくださった主に対する感謝の涙だったと言われています。その無条件の愛、赦しの中に、私たちも生かされている。だからこそ、生命をかけて赦しを与えてくださった方が悲しまれるようなことはしない、むしろこの驚くばかりの恵みに与った者として、もっと積極的にそのお方が喜ぶ生き方を、既に赦し愛された者としての道を選び取って生きていくことができるのではないでしょうか。お祈りします。