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主日共同の礼拝説教

十字架につけられ―使徒信条⑩

松本雅弘牧師
イザヤ書53章1-6節
マタイによる福音書27章27-44節
2021年5月9日

Ⅰ. はじめに

今日ご一緒に告白する使徒信条では「主は、…ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、…」とあります。今日の箇所は主の十字架の場面です。

Ⅱ. 十字架を取り巻く人々の姿

この福音書を記したマタイは十字架の場面に居合わせる、様々な人々の姿を紹介しています。様々な仕方で主イエスと出会っています。ある人たちは侮辱し罵る。自分たちのドロドロした感情や怒りを無抵抗な主イエスにぶつけていく哀れな人間の姿が出てきます。
最初に登場するのが処刑を任された兵士たちです。彼らは主イエスの着ている物を剥ぎとり、「深紅の外套を着せ」ます。これは王のマントをイメージしたものでしょう。茨の冠は王冠のつもりです。右手に葦の棒を持たせたせ滑稽な姿になったところで、主イエスの前に跪き、「ユダヤ人の王、万歳」と言って戯れています。
彼ら兵士の行動を見ると本当に恐ろしくなります。今、香港では国家権力をバックにした警察官たちが、私たちからしたら市民の方が正しいと思えても、そうした一般市民を、平気で連行し、拘束している。何であんなことが出来てしまうのだろうかと思います。

先日、テレビのニュースを見ていましたら、ミャンマー軍の兵士たちが、民主化運動をしている市民を殴る蹴るの暴力をふるっていました。銃の固い柄の部分で頭を力いっぱいに突いているのです。何であんなことをしてしまうのか。自分の頭で考え、心で感じたことを大事にしたら、すぐにおかしいと分かるはずではないかと思います。たぶん常日頃、ミャンマーの兵士たちや香港の警察官たちは、「民主化運動家たちは国家を脅かす、悪い奴ら」と教育され続けているのでしょう。そしてあくまでも上官の命令によって動かなければならない。悪いことにバックには軍や国家権力があり、さらに悪いことに兵士は武器を持っています。
でも、これは他人事とは思えません。先週の月曜日の朝日新聞朝刊に「明日も喋ろう」という欄に、甲南大学のドイツ現代史が専門の田野大輔さんが、「『正義』の代行者 危うい高揚感」というタイトルの文章を寄せていました。田野さんの専門はドイツのファシズムで、学生たちにファシズムの疑似体験をする特別授業を実施したそうです。具体的には二百人以上の学生に、「ハイル、田野!」と忠誠を誓わせ、行進の練習を繰り返し、白シャツにジーパンという「制服」でキャンパスでカップル(勿論彼らもサクラ)を取り囲み、「リア充爆破せよ!(カップルは消え失せろ)」と叫んで糾弾するように命じる。それに参加したごく普通の学生でさえ、ある種の高揚感に引き込まれる魅力と危うさを知らされた、というのです。

今日の場面に登場した兵士たちもそうだったのではないか。ある種の高揚感に踊らされているのです。兵士たちの悪ふざけはさらに続きます。ゴルゴタに着くと、主イエスに胆汁を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしています。元々このぶどう酒は鎮痛剤、十字架での痛みを和らげるために使われていたそうですが、それに胆汁を混ぜる。苦くて飲めたものではないことを知った上でそうしたのです。意地悪ですし、物凄い嫌がらせです。その後、彼らはくじを引いて主イエスの服を取り合っています。ある意味、ゲームに興じている。神の子が十字架で死んでいこうとするその瞬間まで、十字架のもとではゲームが行われていました。
さて通りすがりの人たちが登場します。「神殿を壊し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」。彼らも主イエスを侮辱しています。そして祭司長や長老たちです。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがよい。そうすれば、信じてやろう。彼は神に頼ってきた。お望みならば、神が今、救ってくださるように。『私は神の子だ』と言っていたのだから」。最後、十字架につけられた強盗たちも、同じように主イエスを罵っているのです。
このように見て来ますと、十字架での主イエスの肉体的な苦しみ、痛みは想像を絶するものであったわけですが、それに加え、兵士、通りすがりの人々、祭司長たち、長老たち、そして死刑囚たちからも、徹底的に侮辱され、罵らせ、あざけられている。使徒信条が、「主は十字架につけられ」と告白する十字架の出来事は、主イエスの側に立って見ていく時に、肉体的にも精神的にも、とてつもなく苦しい出来事であったことを、改めて知らされるのです。

Ⅲ. 苦難の僕

ところで、イザヤ書53章は主イエス・キリストの十字架の苦しみの意味を預言した有名な「苦難の僕」と呼ばれる御言葉です。そこに「しかし、私たちは思っていた。/彼は病に冒され、神に打たれて/苦しめられたのだと」と記されている言葉こそ、十字架の場面に登場する兵士、通行人、祭司長たち、長老たち、そして十字架にかかっていた人々、みんなの思いを代弁している言葉なのではないかと思います。誰もが皆、自分とは無関係、イエスは自業自得、自らのことのゆえに苦しんでいると思っていたのです。

兵士たちは主イエスに唾を吐きかけています。「ユダヤ人の王」と侮辱しました。その他のこともそこに出て来ますが、何でこんなことが人間にできてしまうのか。私はここに、人間の罪の現実の恐ろしさ、悪の連鎖を感じるのです。ここに出てくる兵士たちは一番下っ端の兵士でしょう。彼らには上官が居て、上官の命令には全て服従しなければなりませんでした。日頃、上官には好き放題されていたかもしれません。

ところで、孫が生まれ、孫を通して改めて知らされることに、人間は学ぶ、真似るということでした。私が何かすると一生懸命真似る。そしてもう一つ、人はされたようにする。私たちは優しくされると優しくなれるものです。逆に人を怒鳴ることを覚えるのは、怒鳴られる経験を通してでしょう。ここで兵士たちはイエスに唾を吐きかけています。普通、そんなことしませんし出来ません。でもそれが出来てしまう。それはこの状況のなかでの不思議な高揚感に加え、日頃の訓練を通して、彼らはそのように教育されてきたからなのではないか。軍事教育の賜物だったのではないかと思うのです。上官が不機嫌な時、平気で怒鳴られ唾を吐きかけられる。そんな屈辱を味わっていた。また実際に見て学んだ。訳もわからず怒鳴られ、唾を吐きかけられ、平気で暴力を振るわれたことだってあったかもしれません。「傷ついている人は人を傷つける」という言葉を聞いたことがありますが、ここで主イエスを侮辱し、からかう兵士たち自身が、侮辱され、からかわれて来たからなのではないかと思うのです。

祭司長たち、長老たちの侮辱の言葉、「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ」。これも彼ら自身の痛みから発せられた言葉のように、私の心には響いて来るのです。
二人の死刑囚も同様です。彼らも一緒になって主イエスを侮辱しました。死刑囚の心の内側には、〈ひょっとしたら…〉という期待感があったかもしれません。噂に聞いていたナザレのイエスですから…。しかし何も起こらない。期待外れ。期待しただけ損でした。
こう考えてきますと、彼らはみんな自分の人生に納得してなかった。怒っていました。そして、もっともっと心の奥底を探るならば、そこに癒されない傷、痛みがあったのではないでしょうか。

Ⅳ. 身代わりに負ってくださる主イエス・キリスト

実は今日の箇所にはまだ取り上げていない人物が一人います。それは「シモンという名前のキレネ人」です。たまたまそこを通りかかっただけなのに、シモンからしたらいい迷惑です。主イエスに代わり十字架を背負って歩かされた。しかも主イエスと共に様々な言葉の暴力を浴びながらです。私たちも日々、担いきれないような重たい荷物をしょって生きているかもしれません。でもマタイは、ゴルゴタの丘に着く時、シモンの肩から十字架が降ろされていくのを伝えています。「彼が受けた懲らしめによって/私たちに平安が与えられ/彼が受けた打ち傷によって私たちは癒された。」このイザヤ書の御言葉、その成就としての主イエス・キリストの十字架を仰ぐ時、私たちが負う重荷と辱めも、やがて主イエスが、私たちに代わって、負ってくださる時が来る。それは主イエスが私たちの病や痛みを一切合切、背負ってくださったから。それによって私たちに平安が与えられ、その十字架によって癒される。正に、主イエス・キリストの十字架は、私たちのためだったのです。お祈りいたします。