<ペンテコステ礼拝>
松本雅弘牧師
ヨエル書3章1-5節
使徒言行録1章6-14節、2章1-4節
2021年5月23日
Ⅰ. はじめに
使徒言行録1章6節に、昇天の直前に復活の主キリストと弟子たちの間で交わされた会話、そして昇天後ペンテコステまでの10日間、主イエスのご命令どおり「父の約束されたもの」を祈りつつ待ち望んでいた、彼ら弟子たちの姿が記録されています。そうした弟子たちの上に聖霊が降臨した。そして彼らが聖霊を宿す神殿となり復活の主の証人とさせられていったという出来事が使徒言行録2章の初めに記されているのです。今日はそれを記念するペンテコステ礼拝です。
Ⅱ. 一民族国家であるイスラエル王国の復興ではなく神の国の実現のために
聖書は寡黙です。それを踏まえた時、弟子たちの口から出た「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」という問いこそ、国家を失い、すでに数百年が経過していた彼らイスラエル民族にとっての悲願の問いかけだったと思うのです。
サムエル記や列王記には神の国イスラエルの栄光と崩壊の歴史が綴られています。神の国イスラエル統一王国の分裂、北イスラエルの滅亡、そして南ユダのバビロン捕囚と神殿の破壊です。以降、イスラエルは再び国家を持つことがありませんでした。イエスさまの時代も、人々はローマ帝国の支配下にありました。これがこの時のユダヤの人々が置かれていた状況です。
ところで、ここ数週間、パレスチナにおけるイスラエル軍とパレスチナ自治区ガザ地区の武装勢力との軍事衝突が激しさを増して来ていています。それがいつから始まったかと言えば、第二次世界大戦後の1948年に、ホロコーストに対する西側諸国の思いもバックに、そこに居住していたパレスチナ人の地に強制的にイスラエル国家を建設してしまったからでしょう。余談ですが、今でも一部のクリスチャンは、イスラエル民族が乳と蜜の流れる地である、現在のパレスチナに戻ることが聖書の約束の成就として受けとめ、強硬に支持を表明しています。そうしたことを考えると、6節の問いは極めて現代的な問題のように感じるとともに、現代に生きる私たちも、この問いに対する主イエスの答え(8-9)に耳を傾けなければならないと思います。ここで主イエスの答えはイスラエル民族国家の復興ではなく、これまで宣べ伝えてきた神の国の到来だったからです。
Ⅲ. 神の国のビジョンに生きる―「御国を来たらせたまえ」と祈りつつ
思い出していただきたいのですが、公生涯のはじめ、主イエスはヨハネからヨルダン川において洗礼をお受けになりました。その直後、悪魔の試みを受け、そしてガリラヤに戻り、宣教を開始されたのです。今日お読みしている使徒言行録が続編というならば、その前編にあたるルカ福音書を見ますと、主イエスは最初にナザレに行かれ会堂に入って説教なさいました。イザヤ書の巻物が手渡され、そこには「主の霊が私に臨んだ。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主が私に油を注がれたからである。主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目に見えない人に視力の回復を告げ、打ちひしがれている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」と書かれていました。読み終えた主は、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と宣言された。言わば、このイザヤ書に書かれたことを行うために、自分は「油注がれメシアとして聖別された」とお語りになったのです。
「主の恵みの年」というのはヨベルの年のことで、借金の帳消し、土地の返還、奴隷の解放が起こる年です。ただこれは貧しい側の人々にとっては恵みですが、富んでいる側の人々にとっては恵みでも何でもありませんでした。ですから学者の間では実際にヨベルの年が行われたかどうかは疑わしいとされています。しかし大切なことは、神の国のイメージ、主イエスがもたらす福音によって実現しようとなさった神の国での救いのイメージが、このヨベルの年にあらわされているという点です。格差のない、平等かつ分かち合う社会を主イエスは願っておられたのです。ですからこの後、主イエスは、「神の国はこのようなものである」と神の国の福音を宣べ伝え、実際に神の国の福音に生きて行かれました。
Ⅳ. 一方的な恵み
ところで、エクササイズの第1巻に、17世紀のイギリスで牧師をしていたジョージ・ハーバートが書いた「愛」という詩が紹介されています。翻訳家の中村佐知さんの訳でご紹介します。
“愛”が私をあたたかく招き入れてくださったのに、私の魂はしりぞいた。
ちりと罪にまみれていたから。
しかし敏い目をお持ちの”愛”は、私のためらいに気づかれた。
私が戸口に入ったそのときから。
私に近づき、優しくたずねてくださった。
何か足りないものがあるのか、と。
ここにふさわしい客人がいないのです、私は答えた。
“愛”は言われた。おまえがその客なのだよ。
薄情で恩知らずな私がですか? ああ、愛しい方よ。
私にはあなたに目を向けることもできません。
愛”は私の手を取り、微笑みながらお答えになった。
誰がその目を造ったのか、わたしではないか?
そのとおりです、主よ。しかし私はそれを汚してしまいました。私は恥を
受けるにふさわしい者です。
おまえは知らないのか、”愛”は言われた。だれがその咎を負ったのかを。
愛しい方よ、では私があなたにお仕えいたします。
“愛”は言われた。おすわりなさい、そして私の食事を味わいなさい。
そこで私はすわり、それをいただいた。
この詩は、神の愛、神の国に招かれるとはどういうことなのかについて伝えています。ここで、「愛」は神さまを指しています。愛なる神さまは私を招いてくださるのですが、自分の罪や醜さを知っている者として、なかなか聖なる義なる神さまの御前に、そのままの姿で招きに応じるのをむずかしく感じてしまう私がいるのです。しかしにもかかわらず神は私を優しく導いてくださる。自分はあなたに招かれるようなふさわしい客人ではないと話す私に、あなたこそ、客としてふさわしい、と伝えてくれるのです。
アウグスティヌスは、「私たちを愛することによって、神は私たちを、愛を受けるにふさわしい器とされる」と語りますが、まさにそういうことでしょう。それでも私は、自分の内なる汚れや罪を示されているので再び躊躇するのですが、それに対し「おまえは知らないのか、”愛”は言われた。だれがその咎を負ったのかを。」と語り、主イエスの十字架を示すのです。「イエスがあなたの責めを負ったのです。私の息子があなたの恥を身に受けたので、もはやあなたの負うべき恥はなくなりました」と語られる。そして最後に「“愛”は言われた。おすわりなさい、そして私の食事を味わいなさい」と語りかける。帰還した放蕩息子の罪の告白の言葉を遮り、「急いで、いちばん良い衣を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足には履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう」。そう言って喜びの宴会を催す父親の姿そのもの。これこそが神の国、福音の世界なのです。
Ⅴ. 聖霊の力によって
1章8節に、「ただ、あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」とありますが、この力は私たちの頑なな心を砕く力です。主イエスの福音をそのまま受け止めるよう導く力です。そしてまた、神を愛し人を愛する宣教の力なのです。この聖霊が私たちにも与えられています。この聖霊に導かれ、イエスさまが父なる神さまの無条件の愛を深く感じたように私たちも神の愛を深く味わうことができるように。そして、その愛に満たされることで様々な誘惑から自由にされ、逆に、復活の主の証人として、神さまの素晴らしさを証ししていく私たち、聖霊が豊かに息づく教会として育てていただきたいと願います。
お祈りします。