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主日共同の礼拝説教

主イエスの死―使徒信条⑪

松本雅弘牧師
詩編22編1-26節
マタイによる福音書27章45-56節
2021年5月30日

Ⅰ. 祈りは聞かれる?

今日の聖書には、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ/わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と大声で叫ばれてイエス様は死んでいかれたと記されています。私たちは使徒信条をもって主イエスの死を告白するわけですが、今日はその意味について御一緒に考えてみたいと思います。

Ⅱ. 不思議な現象と不思議な言葉

福音書には、主イエスが十字架の上で死なれた時に、真昼の12時であったにもかかわらず全地が真っ暗になり、それが3時間にわたって続き、次々と不思議な現象が起こったことが報告されています。その一つは「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け」たことです。真の大祭司であり、真の犠牲の供え物となられた主イエス・キリストによって、誰もが聖なる神さまの御前に出ることができるようになったことを示す出来事だったと思われます。

不思議な現象はさらに続き、「地震が起こり、岩が裂け」、さらに「墓が開いて、眠りに就いていた多くの聖なる者たちの体が生き返った」。復活の先取りです。死さえも、主イエスの死によって打ち破られています。
そうした不思議な現象の最中にあって、主イエスが十字架の上で、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と絶叫し死んでいかれた。そしてこの言葉もまさに不可思議な言葉なのではないでしょうか。ある人は、主イエスのこの言葉の不思議さについてこう語っています。「この言葉は、私たちを戸惑わせます。神の子であり、しかも天の神の意志に従って十字架にかかったはずのイエス・キリストが、最後の最後にどうしてこのような言葉を発せられたのか。」
主イエスの死を考える時、やはりこの言葉をどうとらえるのかが大きな問題のように思うのです。

Ⅲ. 「ここにおられる―ここに、この絞首台に吊るされておられる」

先週、一冊の本を読みました。エリ・ヴィ―ゼルというユダヤ人が、ホロコーストでの自らの体験を綴った作品で、十字架に関する書物を読むと必ずと言ってよいほど言及される、『夜』という書物です。
宮田光雄先生は次のように書いています。
「彼(ヴィ―ゼル)の最大の問いは、神の沈黙ということだった。人間は、人間からは、もはや多くを期待することはできないかもしれない。しかし、神からは、なお何かを期待することが許されるのではないのか。なぜ神は口を開こうとしなかったのか。ヴィ―ゼルがユダヤ人としての立場で発するこの問いは、言わば全人類的な普遍性をもつ問いともいえよう。」

『夜』の中に、二人のユダヤ人と一人の少年が武器隠匿のかどで絞首刑になる場面が次のように描かれています。
「二人の大人はもう生きてはいなかった。…しかし三番めの綱はじっとしていなかった―子どもはごく軽いので、まだ生きていたのである…。三十分あまりというもの、彼は私たちの目のもとで臨終の苦しみを続けながら、そのようにして生と死とのあいだで闘っていたのである。…私が彼のまえを通ったとき、彼はまだ生きていた。彼の舌はまだ赤く、彼の目はまだ生気が消えていなかった。
私のうしろで、さっきと同じ男が尋ねるのが聞こえた。『いったい、神はどこにおられるのだ。』そして私は、私の心のなかで、ある声がその男にこう答えているのを感じた。『どこだって。ここにおられる―ここに、この絞首台に吊るされておられる…』」

主イエスは、死の前夜、「「私は死ぬほど苦しい」と告白し、「この杯を私から過ぎ去らせてください」と真剣に祈りましたが、その祈りは聞かれなかったのです。
あのアウグスティヌスも、十字架上の主イエスの叫びに躓いた人の一人でした。「神であれば、神の子であれば、そんなに苦しむはずはない、こんな叫びをあげるはずはない。あまりにも人間的な叫びです。ですから、これはキリストではなく、キリストの人間的な性質がそのように叫ばせたのだ」と結論付けます。
でもそうでしょうか。「主イエスは神の子で全知全能であられるのだから、全てをご存じだった。だとしたら、イエスは役者のようにしてそれを演じていたに過ぎないのではないだろうか」と語る人もいます。 確かに、「役者」というギリシャ語は「ヒポクリテス」という言葉、仮面をかぶって素顔を見せない人という意味です。英語のhypocrite(偽善者)の語源になっている言葉です。「シナリオが分かっていて、それでも絶叫したりしているとすれば、それはまさに偽善者の所業ということになる」と言うわけです。

今までマタイ福音書を読んできましたが、福音書を通して知らされる主イエスのお姿は命を与え、道を示し、真理を生きられたお方であることに間違いはありませんが、同時に泣いたり、汗をかいたり、空腹を覚え、不安を感じる私たちと同じ人間のお姿なのです。
先ほどのヴィ―ゼルの『夜』の中で、「いったい、神はどこにおられるのだ」という声に対し、「どこだって。ここにおられる―ここに、この絞首台に吊るされておられる…」という声が聞こえたように、主イエスは、真の神だからこそ、共に絞首台につるされ、共にぴくぴくとけいれんを起こしつつ苦しむお方なのではないか。真の神だからこそ、十字架にかけられ、まさに捨てられようとしている者の叫びを共に叫ばれるのではないかと思うのです。

主イエスは十字架の上で、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と絶叫されたわけですが、これはそのまま聞かれるべき言葉のように思うのです。何故ならここで主イエス・キリストは、ご自身も捨てられた者として、この言葉を叫んでおられる。それは今、同じように捨てられ、滅びようとしている人々と共にいることを決意された、インマヌエルなるお方だから。
私たちは、そのことを知ることで、イザヤが語った、「彼が受けた懲らしめによって、私たちに平安が与えられ、彼が受けた打ち傷によって私たちは癒された」とあるように、主イエスの十字架を仰ぐ時、不思議と本当の癒しを経験するのではないでしょうか。

Ⅳ. 苦しみの中で共に歩んでくださる主イエス・キリスト

さて、ここに百人隊長が登場します。彼は主イエスの十字架の現場に居合わせた人物で、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ぶ姿をも目撃していました。
そして勿論、彼はこの時起こった思議な自然現象の幾つかも見たことでしょう。ところが不思議な自然現象を目撃したからではなく、十字架の上で苦しむ者と共に究極の苦しみを経験し、息を引き取られたそのお方の苦しみの最後を目の当たりにした結果、「まことに、この人は神の子だった」と、ここで告白しているのです。

以前、クリスマスの時期に高齢者施設を訪問しました。そこに、ある教会で婦人会会長をなさっていた方がおられました。認知症が進み、私のことも分かりません。そしてオムツをしておられた。それを見た私はショックを受けたことを覚えています。
しかしその時、「あなたがたは、産着にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子を見つける。これがあなたがたへのしるしである。」という聖句が心に浮かんだのです。救い主のしるしが「産着」だった。一説によればそれはオムツを意味すると言われています。
栄光に満ちたお方としてではなく、保護を必要とするような弱い存在として、オムツを人に代えてもらわなければならないような存在として生まれてこられた。
でも、だからこそ、有り難いのではないでしょうか。嬉しいのではないでしょうか。それは全ての人の救い主になるために、飼い葉桶にオムツに包まれて眠る乳飲み子として、もっとも貧しい弱い姿で、地上に来られました。それが主イエス・キリストでした。

普通、救い主は救われる者よりも強いというのが「常識」です。でも主イエスはちがいます。それは最も弱く貧しい者でも安心して近づくことが出来るように、飼い葉桶の中に赤ん坊として誕生された。安心して羊飼いが近寄る事ができたイエスさまです。しかし、だからこそ常識的な当時の人々はみんな躓いたのです。
そのお方が、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばれた。叫ばずにはおられないところに立ち、死んでいかれた。その主イエスの姿の中に百卒長は神の子を見出したのです。

日々の生活で、様々な困難さや苦しみを味わうかもしれない。祈っても聞かれないことを経験するでしょう。しかし主イエスこそ、「この苦しみの中で、私と共に歩んでくださるお方」であることは確かなのです。百人隊長のように、そこに神の子イエスを見ていきたい。そのお方を信頼し、そのお方に今週も従って歩んでゆきたいと願います。お祈りします。