松本雅弘牧師
詩編139編1-8節
マタイによる福音書27章57-66節
2021年6月6日
Ⅰ.はじめに
先週、私たちは主イエスの死について、御一緒に学びました。今日はその続きです。
使徒信条の告白文を読みますと、「主は死んで葬られ、よみにくだり」とあります。死の後に葬りと、そして「よみにくだった」ことが告白されています。
Ⅱ.主の十字架の証人としての女性たち
マタイによれば、主イエスの十字架の死の目撃者は百人隊長であったと共に女性たちであったと伝えています。当時、女性は裁判で法廷に立つことができませんでした。さらに女性は男性に所属すると見なされてきました。このように女性は弱き者の象徴的存在でした。ところが福音書において神さまは、「証人」となることができなかった女性たちを、主イエスの死の目撃証人として、さらに復活の最初の証人として、お選びになっている。世界で最初のクリスマスの知らせを、人口調査の対象外の羊飼いや、祝福の枠外にいた異邦人であった東方の占星術の博士たちを選んで告げられた神さまが、ここでも女性たちを復活の最初の証人としてお選びになった。ここに福音のメッセージが兼ね備える物凄い大きな恵みの力、解放の力が隠されているように思うのです。
Ⅲ.男性たち
さて、証人として立てられていた女性たちに対し、この場面に男弟子たちの姿が見当たりません。26章56節で「この時、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」とある通り、彼らは蜘蛛の子を散らすように逃亡し、十字架の場面に目撃者として居合わせていなかったのです。
この時代、社会の表舞台に登場するのが男性たちです。ただそうした彼らはいつの間にか社会の構造の中に組み込まれ自由に振舞うことができなかった。その代表者が祭司長たち、ファリサイ派の人々でしょう。そうした彼らは何をしたかと言いますと、ピラトのもとに出向き、こう訴えています。
「閣下、人を惑わすあの者がまだ生きていたとき、『自分は三日後に復活する』と言っていたのを思い出しました。ですから三日目まで墓を見張るように命令してください。そうでないと、弟子たちが来て死体を盗み出し、『イエスは死者の中から復活した』と民衆に言い触らすかもしれません。そうなると、人々は前よりも、もっとひどくだまされることになります。」
彼らの不安が、よく表れた言葉です。確かに社会的混乱の回避は、立場上、大切なこと。でも本音は地位や面子を失うのを恐れていました。しかも呆れてしまうのですが、その日は安息日です。
マタイ福音書12章には、弟子たちが麦の穂を摘んで食べた始めた時に、目撃したファリサイ派の人々が主イエスに対し、「あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と非難しています。その彼らが、他でもない安息日にピラトのもとに結集し直談判している。しかも交渉相手のピラトは異邦人です。口ではモーセの律法に従うと言うのですが、実際は自分たちの腹がモーセの律法よりも上、結局、自分のことしか考えてないのです。
もう一人の男性をマタイは紹介しています。アリマタヤ出身のヨセフです。たぶん彼は主イエスの説く神の国の福音に心を惹かれながらも、表立って信仰を表明することができないでいたのでしょう。でも最後の最後、勇気を振り絞り、遺体の引き取りを願い出たのです。マタイは、彼がイエスの弟子であったと伝えます。主イエスの宣べ伝えた神の国の福音によって解放され、すべきことを示された時、神から勇気をいただき行動に出たのでしょう。
Ⅳ.主はほうむられ、よみにくだり
さて、今日、お読みしました、この出来事を、使徒信条では、「主は死んで葬られ、よみにくだり、三日目に死人のうちからよみがえり」と言い表しています。死に関する言葉が重ねられ、それによって主イエスが確実に死なれたということを強調しています。
使徒パウロは主イエスの死の意味をこう述べています。
「キリストは、神の形でありながら神と等しくあることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして僕の形をとり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまでそれも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2:6-8)
神の御許におられた主イエスが、御自分を無にし、この世にお生まれくださった。それは罪の内に彷徨っている私たちを捜し出し救うため。その罪を代わり担い私たちと共にあるためです。マタイは、そうした主イエスのご生涯の意味を旧約の預言者の言葉を重ね合わせ、「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』これは『神は私たちと共におられる』という意味である。」(1:23)と記しています。
これまでマタイ福音書を読み進めてきて、まさに「インマヌエル/神は私たちと共におられる」というのは、誕生から十字架、そして復活まで、主イエスのご生涯の全ての場面において貫かれているメッセージです。私たちが行く所どこにおいても、主イエスはご自分を無にして降って(くだって)来てくださる。その極みが、「よみにくだり」と使徒信条が告白する、「主イエスのよみくだりの出来事」だと言うことができるのではないでしょうか。
ところで、「よみ(陰府)」という言葉を見ると、「地獄」を連想する方もあるかもしれません。ヘブライ語で「シェオル」、ギリシャ語では「ハデス」と言う言葉ですが、聖書で言うところの「よみ」は、死んだ人間が行く世界とされています。ちなみに、生前の罪の罰を受ける地獄はギリシャ語で「ゲヘナ」と区別されます。
詩編88編に「陰府」という言葉が出て来ます。「私の祈りが御前に届きますように。私の叫びに耳を傾けてください。この魂は災いを知り尽くし、この命は陰府に届きそうです。私は穴に下る者のうちに数えられ、助けのない人のようになりました。死人の中に捨てられ、刺し貫かれ、墓に横たわる者のようになりました。もはやあなたはそのような者に心を留められません。御手から切り離されたのです。」(詩編88:3-6)
これこそが旧約の時代の死生観だと言われます。陰府とは神との関係が完全に断絶された深い闇の世界。そこに落ちてしまったら二度と光を見ることができない。これに対して使徒信条は何を告白するかと言えば、主イエスは死なれた後、詩人が恐れる陰府まで降ってくださったのだ、と告白するのです。その根拠となるのがペトロ第1の手紙3章19節以下の箇所です。
「こうしてキリストは、捕らわれの霊たちのところへ行って宣教されました。これらの霊は、ノアの時代に箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者たちのことです。僅か八名だけが、この箱舟に乗り込み、水を通って救われました。」(Ⅰペトロ3:19-20)「捕らわれの霊たちのところ」とは陰府のことで、御手から切り離された、絶望と闇が支配する場所です。ところが、その陰府に光そのものであられる主が降っていかれた。闇を追い払うためです。
「死んだら御終い」という私たちを捕らえる死の物語が、復活という希望の物語に書き換えられ、たとえ私たちがどれだけ離れたところにあったとしても、福音の光は必ず届く。何故?陰府にすら届いているわけですから。全く断絶してしまったかに思えるような状態にあっても、私たちを捜し続け、光そのもののお方が陰府まで降りて来て、闇を追い払ってくださったのです。
最後にもう一度、今日の聖書の箇所に戻りますが、主イエスが生前お語りになった、「自分は三日後に復活する」という言葉を祭司長たちやファリサイ派の人々が、自らの口で言い表しています。しかも、「イエスは死者の中から復活した」と言い触らす可能性を心配している。これは元々主イエスがお語りになった言葉です。その御言葉が今、力を発揮し光を放っている。本来ならば、計画通りに主を十字架で殺害できたわけですから、喜びの中にあっていいはずの彼らです。しかし勝利者である彼らは不安の中におかれています。その証拠に主イエスの墓に封印させ、厳重に警備させるために番兵を配置しているのです。
でも、まさにこの間に、主イエスは何をなさっておられたか。「陰府にくだり」、宣教しておられた。そのように、誰一人として、主イエスの復活の力、神の国の福音宣教を阻止し封印することはできなかった。
今日も、この後、使徒信条で、「主は死んで葬られ、よみにくだり、三日目に死人のうちからよみがえり」と告白する時、その圧倒的な恵みを心から感謝し、告白していきたいと願います。お祈りします。