松本雅弘牧師
イザヤ書9章10-17節
ルカによる福音書1章26-38節
2021年6月13日
Ⅰ.主イエスに関する告白の始まり
使徒信条は大きく三つの部分から成り立っています。第一部は父なる神に関するもの、第二部は主イエス・キリストに関する部分、そして第三部は聖霊とその御働きについての告白部分です。こうした中、今日の「主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ」という告白は、第二部の最初の箇所です。
Ⅱ.「処女降誕」のつまずき
国際基督教大学の森本あんり先生が著書、『使徒信条―エキュメニカルなシンボルをめぐる神学黙想』の中で、「使徒信条の条項のうち、もっとも不条理で現代人に受け入れがたいと思われるところを一か所挙げよ、といわれたら、おそらく多くの人が『処女マリアより生まれ』というくだりを挙げるのではないだろうか。イエス・キリストの処女懐胎は、復活と並んで、福音信仰の大きなつまずきである。」と記しています。
私は、高校生の時に教会に通い始めたのですが、しばらくして分かったことがありました。それはクリスチャンの多くが進化論を目の敵にし、創世記の1章、2章の記述をもって批判するわけです。私自身もかなり長い間、そのように受けとめていました。ところが、結婚し子どもが与えられ、小学校の理科の時間に「人間はサルから進化した」と教わって帰ってくる。「お父さん、人間は神さまが造ったのではないの」と子どもに質問されたことがありました。我が家では、それも一つの説明の仕方なので、しっかりと学ぶようにと励まし、送り出してきました。果たして進化論と聖書の記述、特に創世記の最初の箇所とは矛盾するのでしょうか。
聖書を神さまの言葉として読む私たちが、心しておかなければならないことがあります。それは創世記の著者は、進化論に対する創造論を展開する目的で創世記を書いただろうか、と問う必要があるということです。聖書は何のために、どのような目的をもって書かれたのか。主イエスははっきりとおっしゃっています。「あなたがたは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を調べているが、聖書は私について証しをするものだ。それなのに、あなたがたは、命を得るために私のもとに来ようとしない。」(ヨハネ5:39-40)
そうです。聖書とはキリスト証言の書なのです。主イエス・キリストにあって永遠の命をいただくために書かれた救いの書なのです。決して、科学の教科書ではありません。
聖書に書かれていることを、ある人の言葉を使うならば、それこそ新聞記事を読むようにして受けとめないと、クリスチャンにはなれない、聖書を理解したことにならない、と考える教会もあります。でも、私たちは、私たち人間を、この世界を創造してくださったのは神さまなのだ、それがどういう形であったのかは分かりませんが、創造主は確かに神さまなのだ、ということを押さえていること自体が、聖書が大切に伝えようとしていることなのではないかと思うのです。
Ⅲ.「聖霊によって宿り、おとめマリアから生まれ」が意味すること
今日お読みしましたのは、ルカ福音書に出てくる受胎告知、処女降誕と呼ばれる聖書の箇所です。使徒信条では、この箇所から、「聖霊によって宿り、おとめマリアから生まれ」と告白するわけですが、この告白が意味することは一体何なのでしょうか。
主イエスの公生涯を記す四つの福音書を読みますと、四つ全てが主イエスがマリアから生まれたことを伝えてはいません。マルコ福音書などには全く出て来ませんし、ヨハネ福音書はマリアの名前すら出て来ません。一方、マタイ福音書には確かにマリアから生まれたことは出て来ますが、むしろヨセフに起こった出来事として記していきます。そうした中、ルカ福音書だけが一番丁寧にイエスの誕生の経緯を伝えています。だとすると、使徒信条の「聖霊によって宿り、おとめマリアから生まれ」という告白内容は、あまり重要なのではないのでしょうか。むしろ、その逆のように思うのです。
使徒信条は、主イエスが何を教え、どのような奇跡を行い、どれだけ熱心に愛を説かれたかについて述べる代わりに、ただ一直線に主イエスの生涯、主イエスによる救いの歴史を告白していると言われます。そのように絞りに絞った内容であるにもかかわらず、敢えて、「聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ」と言葉を挿入している理由はどこにあったのでしょうか。
教会の歴史を振り返りますと、時代によっては集中的に幾つもの信仰告白が生み出されるということが起こっています。それは教会が問題に直面していたからです。その際、教会は聖書に立ち帰り、聖書が何を語るのかに耳を傾け、信仰告白としてまとめていった。実は、この信仰告白成立過程が聖書の中の手紙や福音書が成立していく過程とも共通するのです。
新約聖書の場合、まず書簡、その後、福音書が書かれたと言われます。新約聖書の各書が書かれ始めた時期は、すでに主イエスは昇天し地上におられません。聖霊降臨の恵みにあずかった初代、古代の教会が、宣教の戦いを始めた時期と重なります。その頃、教会が抱えていた問題が偽預言者との戦いでした。例えば、第一ヨハネ4章1節以下に次のような御言葉が出て来ます。
「愛する人たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て行ったからです。イエス・キリストが肉となって来られたことを告白する霊は、すべて神から出たものです。…」
ヨハネは、「イエス・キリストが肉となって来られたことを告白する霊は、すべて神から出たものです」と書きますが、裏を返せば教会の中にキリストが肉体をとってこられたことを告白しない人々がいたということでしょう。グノーシス主義という考え方です。霊的なものは善で、物質は悪。当然、肉体も悪です。彼らの考え方による救いとは、物質である肉体からの解放と考えました。そしてこの考え方によれば、霊的な主イエスが、肉体を持つ我々と同じ人間として生まれたことは信じたくない。そうした偽りの教えに翻弄された教会に向かってヨハネは手紙を送り、正しい信仰へと導くのです。
直接の論争相手は異なりますが、パウロも同じような問題意識をもってガラテヤ教会に手紙を送っています。「しかし、時満ちると、神は、その御子を女から生まれた者、律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。」使徒信条の「おとめマリアから生まれた」という言い方はしていませんが、意味は同じです。そしてルカも同様でした。
福音書記者ルカは、手紙という形式ではなく福音書という特別な形式で表現したがゆえに、ヨハネたちのような議論はしていませんが、ナザレの村のマリアというおとめのところに、ガブリエルという名の天使が現れ、神の恵みを伝え、「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。」しかも「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを覆う。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」と、聖霊なる神さまがマリアの体、マリア自身をすっぽりと覆い、包んでしまわれる。だから、「生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」と天使が語ったのだ、と物語る仕方で伝えています。
こう考えて来ますと、使徒信条が「聖霊によって宿り、おとめマリアから生まれ」という告白で表そうとしたことは、第一に、主イエス・キリストが、私たちと変わらない一人の人間として地上に誕生された。そしてもう一つ、「聖霊によって宿り」という告白通り、主イエスの誕生が神による特別なものであったということでしょう。
Ⅳ.私たちのことを分かってくださるお方としての誕生
そして最後に、忘れてならないポイントがあります。それは、使徒信条がマリアやポンテオ・ピラトの名前を挙げ、主イエスの人生と交差させながら告白している点です。名前とはその人にしか与えられていない、その人固有のものです。マリアもポンテオ・ピラトもそうです。特にピラトは歴史の教科書に載っている人物です。第五代ユダヤ総督で在任期間は26年から36年です。これによって間接的にではありますが、主イエスの歴史性を証明しています。「聖霊によって宿り、おとめマリアから生まれ」と告白する時、主イエスの生涯が私たちが生きているこの世界で起こり、しかも私たちと全く変わらない一人の人間として誕生し、生きられた。だからこそ、私たちのことをご自身のこととして分かってくださる。喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣く者として歩んでくださった。だからこそ、私たちは、主イエスを信じると、今日も告白できるのです。お祈りいたします。