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主日共同の礼拝説教

天に昇り、神の右に座しておられる主イエス・キリストー使徒信条⑭

松本雅弘牧師
詩編110編1-7節
使徒言行録2章29-36節
2021年6月20日

Ⅰ. はじめに

以前、旧讃美歌を使って礼拝を捧げていた頃、使徒信条を告白する際、オルガンの奏楽に合わせて告白していました。旧讃美歌556番です。それによりますと十字架の告白を境に、「三日目に死人のうちからよみがえり」あたりから曲の雰囲気が次第に明るくなり、そして「天にのぼり、全能の父なる神の右に座し給えり」では最高潮に達するのです。今日はその「天にのぼられました。そして全能の父である神の右に座しておられます」という箇所を御一緒に学んでいきたいと思います。

Ⅱ.ハイデルベルク信仰問答を手掛かりに

ところで、16世紀にドイツで告白されたものに、「ハイデルベルク信仰問答」という文書があります。使徒信条の学びをしている中で知ったのですが、使徒信条を理解する上で引き合いに出されるのが、この「ハイデルベルク信仰問答」なのです。今日は「ハイデルベルク信仰問答」を参考にしながら考えてみたいと思います。
ハイデルベルク信仰問答の中で、主イエス・キリストの昇天と着座に関する問答は、第49問目に出てまいります。
問い:キリストの昇天は、われわれに、どういう益を、与えるのですか。
答え:第一に、主が、天において、神のみ面(かお)の前に、われわれのとりなしをする者となってくださることであります。
第二に、われわれは、主が、かしらとして、そのえだであるわれわれを、ご自分のもとに引き上げてくださる、確かな担保として、われわれの肉を、天にもつことになるのであります。
第三に、主は、み霊を、これと見合う担保として与え、そのみ霊の力によって、われわれは、キリストが神の右に座しておられる、あの上にあるものを求め、地にあるものを求めないようにしてくださるのであります。

Ⅲ.昇天がもたらす益/恵み

この問いかけを見ますと、キリストの昇天によってもたらされる益は何かと問うています。答えは、昇天し神の右への着座したキリストが、神の御前で私たちを執り成してくださっていることが最大の恵みなのだ、と告白するのです。

ところで使徒信条は、元々はラテン語で書かれているのですが、そのラテン語で書かれた、これら一つひとつの動詞の時制/テンスを見ますと、主イエス・キリストが、「宿り」、「生まれ」、「苦しみを受け」、「くだり」、「よみがえり」、「天に昇られました」までは完了形で告白するのですが、今日の後半、「全能の父である神の右に座しておられます」という「座する」という動詞は現在形で言い表されているのです。使徒信条が「宿り」、「生まれ」、「苦しみを受け」、「くだり」、「よみがえり」、「のぼり」と、そこまでは既に歴史上一回限りの出来事として完了してしまっている。でも続く「座し」を使徒信条は現在のこととして告白しているということなのです。
今、この時、主イエスはどこにおられるのか。「おられた」という過去の話ではありません。今、現在、主イエスはどこにおられるのか。私たちの使徒信条によれば、神の御前に、それも父なる神の右におられる。そして、執り成しておられる、と聖書から、そのように告白している、ということなのです。「でも、松本先生、父なる神の右におられるとしたら、私たちと離れておしまいになったのですか?いつも私たちと一緒にいてくださらないのですか?」と疑問を持たれるかもしれません。そうなのです。主イエスは、その後、ペンテコステに遣わされた、ご自身の霊である聖霊によって、私たちといつも一緒にいてくださる。ただ天に行って、私たちと離れてしまわれたのではありません。聖霊によって主がいつも私たち教会と、そして私たち一人ひとりと共にいてくださるという恵みを実現してくださったのです。主イエスが神の御前に行かれると共に、私たちといつも一緒にいてくださる。まさにそれが聖霊によって、教会の現実になっているということなのです。
少し話題を変えますが、「全能の父である神の右に座しておられます」と告白するわけですが、「神の右の座についている」とはどういう意味なのでしょうか。使徒言行録2章でペトロは詩編110編を引用し次のように語っています。「ダビデが天に昇ったわけではありません。彼自身こう言っています。『主は、私の主に告げられた。「私の右に座れ/私があなたの敵をあなたの足台とするときまで。」』」
この詩編110編は、神さまによって立てられる王の即位について歌った詩篇だと言われています。それが主イエスの救い、王なる主イエスのご支配を語る歌として読まれ、謳われるようになった。ペトロはその詩篇を引用しながら説教しています。
ところで、ペトロが引用した詩篇が現しているように、神さまの御心を行う王様は、神の右に座すという理解がイスラエルに広く行きわたっていたと言われます。一般に右は利き腕です。物の本によれば、「みぎ」という日本語は、「ミフセギ」、自分の身を守るということから来ている、とありました。ですから大切な人を守る時、その人の右側に立つ。あるいは座る。権威者からしたら、常に守る人が自分の右に居て、なおかつ自分の言うことをよく聴き、身代わりのように働く。したがって権威ある者の右に位置する人は、権威者と同じように重んじられるべき代理者のような存在です。
主イエスが、全能の神の右に座する。それは、神さまのご支配、神さまの御心の実現が実は、右に座しておられる主イエスにかかっている、ということを表しています。神の御心を、右におられる主イエス・キリストが実現しておられるということです。
私たちが使徒信条で、主イエスが神の右に座しておられるということを信じ、そして告白することは、主イエスを通して、神さまがいつも私たちをご支配してくださる、守ってくださることを確信する信仰へと導かれていくわけです。
そしてもう一つ、「神の右に座しておられる」という、この「座する」という言葉についても少しお話したいと思います。以前、エクササイズ修了者のためのコロサイの学びのテキストでも書かせていただきましたが、聖書において「座する(着座する)」とは、「仕事を成し終える」という意味があります。ですから主イエスが「座した」とはイコール、主イエスに与えられた救済の御業を成就したということなのです。
ヘブライ人への手紙では、「御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の現れであって、万物をその力ある言葉によって支えておられます。そして、罪の清めを成し遂げて、天の高い所におられる大いなる方の右の座に着かれました」と語られ、主イエスが完了した御業が、罪の清めという御業であり、言い換えれば、この世を神と和解させることであり、過去、現在、未来にわたる、私たち人類の全ての罪の赦しを完成するための御業のことです。しかも主イエスは死んで陰府まで行かれ、そこに光を放ち、闇を追い払い、甦ってくださった。そのようにして命をもたしてくださった。ですから私たちは、今すでにキリストと共に復活の命に与っているのです。
主イエスが「父なる神の右にお座りになった」、言い方を変えるならば、主イエスが完全に和解の御業を完了したということは、その後はもうやることなく、悠々自適な生活をするために昇天されたのではないのです。今現在も主イエスは、偉大な大祭司として私たちのために執り成してくださっているのです。これは本当にありがたいことです。しばらく黙想し、この事実が意味することを思い巡らしてみてはいかがでしょうか。

Ⅳ.この恵みの現実に生きる

この主イエス・キリストは今も、神の右の座に着いておられます。そして、今この時も執り成していてくださる。パウロはこの恵みの現実、主の昇天と着座によって、今、私たちに与えられた恵みについて、初代教会の兄弟姉妹に訴えるのです。
「では、これらのことについて何と言うべきでしょうか。神が味方なら、誰が私たちに敵対できますか。私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜らないことがあるでしょうか。誰が神に選ばれた者たちを訴えるのでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。誰が罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右におられ、私たちのために執り成してくださるのです。」
聖霊のお働きの中、主イエスの執り成しの恵みと神さまの愛に支えられ、この一週間も、この恵みの現実の中に歩んでいきたいと願います。お祈りします。