2021年6月27日
詩編95編1-7
2テサロニケ3:17-18
1,はじめに
今日の聖書箇所は、テサロニケの信徒への手紙二の最後の箇所です。この箇所から「祈りの力」と「キリストの再臨」の二つの事について学びたいと思います。
まず祈りについて。パウロはいつも手紙の最初と最後に、祈りの言葉を記しています。今日の聖書箇所でも、パウロが祝福を祈る祈りをもって終わっています。あるクリスチャンの、祈りの人生の話しをしたいと思います。
2,「夕あり朝あり」
先日、伝道集会のノア会でクリスチャン実業家の話しをしました。波乱万丈な人生を、夫婦で祈り合いながら歩んだ人の話しをしました。それは明治時代、クリーニング事業を営んだ五十嵐憲二という人の話しで、作家、三浦綾子が「夕あり、朝あり」という本で紹介していました。五十嵐健治は明治10年新潟の生まれで貧しい家で育ちました。一攫千金の金持ちになることを夢見て、家を飛び出すのですが、どこに行っても仕事が長続きせずに、流れながれて北海道にたどり着きます。ところが騙されて開拓地の肉体労働をさせられる羽目になりました。奴隷のように逃げ出せない日々。このままでは死んでしまうと思い立ち、そこを逃げ出し歩いて小樽の町の宿屋にたどり着きます。まったくの無一文ですから、宿に入り翌朝になって「実はお金がない」と主人に言うのです。仕方がないから、宿代の代わりにしばらく宿で働くことになりました。その宿で出会ったのが聖書でした。しかし、聖書を広げてみてもまったくわからない「それなら二階に泊まっているお客さんに聞いてみるといいよ」と言われて紹介されたのが常連客の中島という人だったのです。それから憲二は毎日この人から聖書を学びます。そしてある日、宿の近くにある井戸の水で洗礼を受けました。この中島という人は「キリスト同信会」というブレザレン系の教会の信徒で、健治は生涯この同信会という教会で信仰を守っていくことになります。信仰をもってから五十嵐健治の人生が変わっていくのです。東京に出てきてから、この同信会の信徒たちとの交わりができ、結婚し、仕事の面からも信頼されるようになって「三越」という日本で初めてできた百貨店で勤めるのです。
ところが「三越」で10年働いたところで、仕事を辞める決意をするのです。自分を変えてくれた神様のことをもっと伝えたい、もっとキリスト教の伝道に当たりたいという思いがあったのです。それには務めているより自営業を営んだ方がいいと考えました。そこで選んだ仕事がクリーニング業でした。当時のクリーニング業は人がやりたがらない職業だったそうです。ところが仕事を始めると、外国には水を使わないクリーニングがあるというので、健治は研究に研究を重ねて日本で初めてドライクリーニングを始めるのです。その店の名前を「白洋舎」と名付けました。
会社の事業ですから良いことばかりではありません。会社乗っ取り事件が一番辛いことだったとありました。信頼していた責任者が社員の大半を連れて、別のクリーニング会社を始めたのです。健治はこの裏切り行為に怒って嘆いて泣きました。しかしそんな時、妻のヌイさんが「あなた、わたしたちは人には捨てられましたが、神には捨てられていませんね」と言われて、健治は「はっ」となって我に返ったといいます。聖書にある「自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい・・復讐は私のすること・・悪にまけることなく、善をもって悪に勝ちなさい」という、パウロがローマ書(12章19節)で語った言葉を読んで祈ったとありました。健治は奥さんと、裏切って向こうについた人たちのために真剣に祈ったというのです。自分の至らなさから、彼らを躓かせたことを神に詫びて祈った、すると心が少しづつ平安になっていった、平安になると残ってくれた社員が、神様が与えてくださった宝物のように思えてきた、そうして祈りの力によって立ち直っていったのです。そのきっかけは、一緒に祈りましょうといってくれた妻の存在です。人間祈ったからといって、すっかりと平安を取り戻せるというものではありません。それが人間というものです。しかし、当初の怒り嘆いていた時とは違うというのです。
そのように健治が白洋舍の事業を展開していくと、社員の中にも信仰者が増えていったそうです。本社の近くに教会を建てるなど、事業を通してキリストを伝える働きをしていきました。実はうちの教会に、白洋舎の本社に勤めていたという方がいて、晩年の五十嵐憲二を知っている信徒の方がいました。とっても素敵なジェントルマンでクリスマスには会社でクリスマス会があったことなどを話してくださいました。
3,祈りの力
五十嵐健治と奥さんの二人が、繰り返しやってくる試練に対して、祈っていた様子が印象的でした。特に人を赦すということは難しいことです。「汝の敵を愛せよ」と言われても、簡単にできることではありません。しかし、パウロの手紙を読んでいても、要するに「そのためにどれだけ祈っているのか?」と言うことだと思うのです。パウロは、本当にテサロニケの人々を愛していましたし、同時にとても心配していました。間違った信仰理解をしている人たちもいたからです。彼らに厳しい言葉で諭すこともありましたが、それ以上に愛をもって祈っていたのです。健治と奥さんも、思い通りにならない人を変えてやろうとか、ライバルの失敗を願っていたら、それは間違った敵と戦っているようなものです。ことを成してくださるのは神様ですし、戦う相手は自分の中にあるサタンです。なぜなら、許せないその人を、神様は愛しているだろうか?と考えれば、もちろん罪を犯していても神様は愛しているでしょう。そこで考えてみたいのです。自分は神様に愛されているだろうか? 愛される価値があるだろうか?義人はいない、一人もいない、私たちは罪人ですから、誰一人として、神の恵みを受けるに値しません。人を赦すことをしないで、自分だけ神の赦しを乞うことはできないでしょう。ただ人を赦すことは、とても難しいというのは事実です。だから祈りが必要なんです。一人で祈るのが難しければ、一緒に祈る人が必要です。健治は苦難にあうと、いつも奥さんの信仰に「はっ」として我に返る人でした。イエス様は、私たちのために祈ってくださっています。そして、私たち
が誰かのために祈ることを望んでおられます。
「私は信仰がなくならないように、あなたのために祈った。だから、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカによる福音書22章32節)
4,パウロの「キリストの再臨」理解
もう一つのテーマ「キリストの再臨」について。パウロは、この手紙で「再臨」のことを伝えようとしました。パウロは再臨の時をどのようにとらえていたのでしょうか。パウロは復活したイエス様出会って衝撃を受けました。パウロにとって復活はキリストの再臨を理解する基盤になっていきます。同時にパウロは旧約聖書に精通した人でした。旧約聖書に書かれていたメシアの到来という預言について熟知していたでしょう。たとえばエレミヤ書では「新しい契約」の預言の中で「その日が来る」という言葉が繰り返し述べられています。「その日」というのは、救い主であるイエス・キリストの到来と、さらに先にある終末の時に救いが完成することの、二つの段階の希望を指しています。復活のイエス様と出会ってしまったパウロは、まず旧約聖書の預言の視点から考えたと思うのです。イエス様の復活のできごとも、終末の再臨のできごとも、来たるべき終末の時代が、二つの段階で到来したと見ていたでしょう。つまり終末のできごとは、キリストの復活で既に「到来しました」し、将来キリストの再臨でも確実に「到来する」とパウロは理解していたのです。
N.Tライトという神学者は「第一の終末と、第二の終末の間に生きていることをパウロは自覚している」と説明していました。「第一の終末と、第二の終末の間」に、テサロニケの人々やパウロ、そして私たちもいるのです。ですから、パウロがこの手紙でテサロニケの人達に忠告したように「再臨の時がいつ来るのか?」と憶測するのは意味がないのです。すでに救いは来ていますし、将来必ず救いは完成するのですから、パウロは惑わされずに、今をしっかり生きることに目を向けさせたのです。それを確実にするものが祈りの力です。
5,小さな祈り
お祈りについて、以前、我が家の食事の祈りを、3歳の息子がする話しをしました。教えたわけでもないのに「今日も共にあることに、アーメンいただきます」と祈ると話しました。しかし、最近はこのお祈りもだんだん省略されてきて「今日もあることにアーメン」になってきました。しかし短くなると意味深くなるなと思いました。「今日もあることにアーメン」今日・・何があるのか?と。「命が」「恵が」「今日という日が」「家族が」「仲間が」そして「神様が」今日あります。「光あれ」と言われた神様が、今日この日のために「ここにあれ」と置いてくださったものは素晴らしいものです。うちの息子にとっては目の前の、ご飯があることにアーメンかも知れません。小さくて、当たり前のようにあるものです。それでもかけがえのない大切なものです。みなさんの前には今日、この日、何が「ある」でしょうか。パウロはこの手紙の中で再臨の希望を覚えつつ「今を生きる」ことを示しました。今日、聖なる者になるように生きる指針を伝えました。つまり「今日、神様によってあるものに感謝して祈る」そんな生活こそがパウロの教える、聖なる生活の指針です。小さなことに感謝できることは、生きる力を与えます。その祈りには力があります。今日あるものに、今日あることに感謝する、それは小さなことでも、祈りによって力あるものになります。最後にパウロの最後の祈りの言葉で、テサロニケの信徒への手紙を終わりましょう。18節「私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがた一同と共にありますように」お祈りいたします。