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主日共同の礼拝説教

審き主なるイエス・キリストー使徒信条⑮

松本雅弘牧師
詩編32編1-11節
コリントの信徒への手紙二5章1-11節
2021年7月4日

Ⅰ.「終わった人」

作家の内館牧子さんの作品に、『終わった人』という小説があります。3年ほど前に映画化もされました。63歳になる田代壮介という名の男性が主人公で、大手銀行の出世コースから子会社に出向させられ、そのまま定年の日を迎える。そこからストーリーが始まります。何よりもその小説は書き出しが凄い、「定年って生前葬だな」という田代の呟きで始まります。

田代壮介に限らず「人生の終わり」をどこに見ているのか、これは一人ひとりの生き方に大きな影響を与えます。そして田代のような考え方は意外と一般的なのではないだろうか。クリスチャンであっても例外ではないでしょう。あるいは、もう少し先延ばしして、「死が人生の終わり」と考える人も多いことだと思います。では、これに対して聖書は何と教えるのでしょうか?今日取り上げます、使徒信条の告白、「そこからこられて、生きている者と死んでいる者とをさばかれます」とあります。いわゆる「最後の審判」ですが、この時こそが、私たちにとっての決定的な区切りの時、一人ひとりの人生の総決算を迫られる時だと告白するのです。

Ⅱ.審き主なるイエス・キリストの再臨

今日の聖書個所でパウロは、再臨の時、主イエス・キリストは審判者なるお方として現れ、「苦であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行った仕業に応じて、報いを受ける」と語ります。かつて主イエスは、「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠れているもので知られずに済むものはないからである。」(マタイ10:26)と語られ、神の御前で全てのものが明らかになることをお示しになりました。ですから、再臨の時に起こる出来事はどこか私たちにとっては恐ろしい出来事のように感じます。

Ⅲ.審判者であられる主は救い主であり、弁護者であられる

ところで、主イエス・キリストの再臨や最後の審判を思う時に心に浮かぶ賛美歌があります。賛美歌18番、「こころを高くあげよ!」です。その4節に「おわりの日がきたなら、さばきの座を見あげて、わがちからのかぎりに、こころを高くあげよう。」とあります。昔、これは開き直りではないのか、と思っていた時期がありました。ところが、今日の「私たちは皆、キリストの裁きの座に出てすべてが明らかにされ、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行った仕業に応じて、報いを受けなければならない」と語る直前に、パウロは「安心している」という言葉を2回も繰り返して使っています。全てが明らかにされるので、びくびくしているのではないのです。キリストの裁きの座に出るのに、開き直るのでもありません。むしろ安心している。先ほどの賛美歌18番と通じる信仰でしょう。

何故、安心できるのか。恐ろしくないのでしょうか。いったいどのようにしたら、「おわりの日がきたなら、さばきの座を見あげて、わがちからのかぎりに、こころを高くあげよう」と心の底から告白できるのでしょうか。実は、この点が今日の説教のポイントです。今日も、ハイデルベルク信仰問答に耳を傾けてみましょう。第52問に次のような問答があります。

問い:生きている者と死んだ者とをさばかれるためのキリストの再臨は、あなたをどのように慰めるのですか。
答え:わたしがあらゆる苦悩と迫害の中にも、頭をあげて、かつて、わたしたちのために神のさばきに御自身を差し出し、あらゆる呪いを、わたしから取り去ってくださった、あの審判者が天から来られるのを待ち望んでいるということです。この方が、御自分とわたしのあらゆる敵を永遠の罰の中へ投げ入れ、事実、また、わたしのすべての選ばれた者たちとともどもに、天の喜びと栄光の中へ招き入れてくださるのです。

再臨の出来事が、「あなたをどのように慰めるのですか」という問いに対して、ハイデルベルク信仰問答の答えはこうです。「あの審判者」、すなわち主イエス・キリストは、「かつて、わたしたちのために神のさばきに御自身を差し出し、あらゆる呪いを、わたしから取り去ってくださった」。「かつて」とありますから既に起こった出来事です。神の審判はもう既に、主イエスの十字架によって済んでいるというのです。ですから主イエス・キリストは審判者であるが、実は、そのお方は救い主でもあり、なおかつ弁護者でもあられる、というのです。
このこととの関連でパウロは、コリントの信徒への第一の手紙で次のようにも語っています。「ですから、主が来られるまでは、何事についても先走って裁いてはいけません。主は、闇に隠れた事を明るみに出し、人の心の謀をも明らかにされます。その時には、神からそれぞれ誉れを受けるでしょう。」(Ⅰコリント4:5)

主が再臨されたのならば、そのお方は「闇に隠れた事を明るみに出し、人の心の謀をも明らかにされ」る。だから私たちはもはや、その御方から逃げも隠れも出来ない。隠されていた思いも行いも、全てが明るみに出される。ある意味で、言い逃れることが不可能な、全ての証拠、完璧な事実が、そこに出そろう状況に置かれるわけです。そうなれば誰一人として言い逃れできません。しかしもう一度、パウロの言葉を見ますと、「その時には、神からそれぞれの誉れを受けるでしょう」と、耳を疑うような言葉が語られています。

最後の審判の時に主によって、「それぞれの誉れを受ける」。終わりの時、「おほめにあずかる」というのです。何でこんなことが言えるのでしょう?それは、裁きをなさる方が、私たちの救い主だから。そのお方は、私たちの罪のために十字架に付かれ、全ての罪を贖ってくださったから。ですから、そのお方は、罪の私たちが行った僅かな善に目を留めてくださる。私たちの中にある善き業への小さな思い、志を認めてくださるからなのです。

Ⅳ.主の正義、身にまとい/恐れなく、進みゆかん

十字架にかかられる数日前、主イエスは神殿の境内で、世の終わりについて、終末についての連続説教をお語りになりました。その一つが、「婚宴の譬え」話です。
婚宴が準備されたのに招かれた人は誰も来ようとしない。最後に王は、家来たちに向かって、「町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい」と命じたというのです。「町の大通り」に立って、「見かけた者はだれでも、もう片っ端から連れて来なさい」。「ユダヤ人/異邦人の区別ナシ」です。一方的な恵みによって招かれる。
ただ、一つだけ条件があった。王様の方でしてくださったことがあった。それが婚宴に出席するための「礼服」でした。

私たちが婚宴という神の国に入るために、救いにあずかるために、私たちが行うべき、守るべき掟は何か、という世界ではありません。何かの掟を守ったので婚宴に招き入れられたのではないのです。神の御前に出るために礼服を着る必要がある。しかし、私の側で用意できる礼服など一着もないのです。ですから聖書は、「キリストを着なさい」と語るのです。キリストが礼服なのです。父なる神が自らの手で、私に着せてくださる礼服、それはメシア・イエス以外にない!主イエスはその礼服を用意するために、十字架にかかってくださった。

私たちがすべきこと、それはこの主イエスの招きに応えることです。十字架によって準備してくださった「イエス・キリストという礼服」を着て、その主が来られ神の国の婚宴が完全にスタートする時を待ち望んで生きていくこと。私たちにとっての最後の審判とは、私たちにとっての弁護者であり救い主であるキリストによる裁きですから、もうビクビクする必要はありません。本当に幸いなことに、十字架の上ですでにすべての罪の贖いは終了してしまっている。ですから、私たちは再臨に際し、審判者である主イエスの、その「さばきの座を見あげて、わがちからのかぎりに、こころを高くあげ」ることができるのです。お祈りいたします。