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主日共同の礼拝説教

わたしは聖霊を信じます―使徒信条⑯

松本雅弘牧師
イザヤ書42章1-9節
ヨハネによる福音書14章1-17節
2021年7月11日

Ⅰ.「わたしは聖霊を信じます」から始まる使徒信条の第三部

以前、私たちの使徒信条は、大きく三つの部分から成り立っているということをお話しました。第一部は、「わたしは、天地の造り主、全能の父なる神を信じます」というところ、父なる神さまについての告白部分です。そして第二部は、続く「わたしはそのひとり子、わたしたちの主、イエス・キリストを信じます」から始まる、御子イエス・キリストに関する告白部分です。そして今日から始まる第三部では、「聖霊を信じます」と告白した後、「きよい公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、永遠の命を信じます」と続き、聖霊なる神さまが働かれる時、それは私たちの中、生活の中で生きて働いておられることを信じるのであり、そうした具体的な働きの実として信仰共同体やクリスチャンの交わり、罪の赦しや永遠の命があることを告白しています。

Ⅱ.弁護者である聖霊

さて今日の箇所で主イエスは聖霊なる神さまのことを、「弁護者」と呼んでおられます。「弁護者」と訳される言葉は、「呼ばれたらそばに来てくれる者/呼ばれてそこに来た人」という意味で、それが転じて「大変困っている人を助けに来る有力な弁護者」という意味となりました。またこのお方は、主イエスが父なる神さまにお願いして、父なる神が遣わしてくださったお方だということなのです。
ところで、今、「そのお方」という言い方をしましたが、そうした言葉遣いに違和感を持たれるかもしれません。今、一般的にもスピリチュアルな事柄に関心がありますが、その場合、霊は、英語で、”it”と表現される非人格的な力や物として受け取られています。しかし、聖書によれば、聖霊は「もの」ではありません。私たちが所有できる霊的な力、アラジンのランプのように、いつでも必要な時に「出て来なさい」と呼びだすことのできる、神秘的で、常に持ち運び可能な「もの」のように、思いのままに用いることができるような存在ではないのです。そのお方は人格をお持ちのお方であり、私たちが尊ぶべき存在であり、礼拝すべきお方であり、自由に働かれるお方です。
今日お読みしませんでしたが、25節と26節で主イエスは、聖霊の大切なお働きの一つに、主イエスがお語りになった教えやお話になったことをことごとく思い起こさせてくださるというお働きについて語られました。ですから後に彼ら弟子たちは、思い起こさせてくださる聖霊の働きによって、自分たちが見聞きした主イエスの言葉、主イエスの御業を新約聖書という文書として書き残すわけです。そして、その聖書に触れた私たち一人ひとりの人生と主イエスの物語、福音の物語を響き合わせ、私たち一人ひとりの人生と結び付けてくださるのも、弁護者、助け主なる聖霊のお働きなのです。
今日の礼拝でも、聖書朗読、説教の前に、「照明を求める祈り」を祈りました。これは「聖霊の照明/照らしを求める祈り」という意味です。何故なら、聖書を理解するために本質的に必要なことは、決して頭を鍛えることや、熱心に勉強することが決定的なのではなく、聖霊の照明が不可欠だ、という、聖書を通して教えられた信仰から来ているわけです。
神学や哲学の世界でよく永遠と時間は質的に異なると言われます。いくら時間を積み重ねても永遠に達するのではないことが真実であるように、パウロが、「聖霊が働いてくださらなければ、誰も主イエスをキリストと告白することはできない」と語るのはそういう意味なのです。すなわち、聖霊が働いてくださらなければ、私たちは神さまを知ることがない。そして神さまに知られている自分自身を知ることができません。

Ⅲ.ぶどうの木であるキリストにつながり続ける―関係に生きる

ところで、クリスチャンとは聖霊を宿す信仰共同体である教会につながったことを意味し、しかも、教会の肢々である私たち一人ひとりも聖霊の宿る神殿になったのだとパウロはコリントの信徒への手紙の中で語っています。その印が「洗礼」です。ですから聖霊をお与えになった後、聖霊の働きを私たちの教会の交わりや、私たち個々の生活の場面で豊かに溢れていく方向を選び取っていくことが大切です。
例えば、鳥は鳥固有の命を神さまから授かっています。ですから、空を飛ぶことが出来る。しかし生まれたばかりの雛鳥はすぐには飛べません。しかし雛に与えられている命が成長するにしたがって、大空を自由に羽ばたくようになる。私たちクリスチャンも同様です。イエス・キリストを救い主、主と告白し洗礼を受けた時点で聖霊が与えられています。ですから聖霊をいただいている私たちがすべきことは、聖霊の働きがもっと現れていく方向を選択して生きていくことです。
この点についてペトロは、「生れたばかりの乳飲み子のように、理に適った、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これによって成長し、救われるようになるためです。」(Ⅰペトロ2:2)と勧めます。分かり易く言うならば、「御言葉の乳を飲むように」と語るのです。そして、この短い箇所で具体的に三つのことが教えられています。一つは、「生まれたばかりの乳飲み子のように」飲むように。二つ目に、「混じりけのない霊の乳を飲むように」。そして三つ目に、「一切の悪意、一切の偽り、偽善、妬み、一切の悪口を捨て去って」(Ⅰペトロ2:1)飲むようにと教えます。つまり心の中を占領していた、「悪意、偽り、偽善、妬み、悪口を捨て去る」ことで心の中にスペースを作る。そこに御言葉の乳をいただき、それを用いて聖霊のお働き、聖霊の命が拡がっていくように、と教えるのです。

Ⅳ.聖霊の働きによる「恵みの循環」

さて、今日の聖書の箇所で、主イエスは父なる神が弁護者である聖霊を遣わされることを明言されたわけですが、実際にこの出来事が起こったのがペンテコステの日でした。その出来事を伝える使徒言行録2章を読みますと、使徒信条の第三部、「わたしは聖霊を信じます」以降の、「きよい公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだのよみがえり、永遠のいのちを信じます」と続く生きた証の姿を、実際のエルサレム教会の歩み、そこに集うクリスチャンたちの生活の中に、具体的に現れる聖霊の働きとして見ることが出来ます。
ただ、注意したいのですが、聖書は聖霊を宿した信仰共同体の様子をレポートし、「教会はこうあるべきだ、クリスチャンはこうあらねばならない」と主張しているのではなく、むしろ聖霊なる神さまが私たちの教会に、私たちの人生に働きかけてくださる時に、このような出来事が起こったのだと淡々と報告しているということなのです。ただ、私たちが見習うべき模範もそこにあります。というのは、エルサレム教会のクリスチャンたちは、あのペンテコステ以降、聖霊を宿し、聖霊に満たされて生活していったわけですが、聖霊のお働きの恵みに継続的に与るために、彼らが大切にしていたことがあった。それが高座教会で大事にしている「信仰生活の5つの基本」です。礼拝、聖書と祈り、主にある交わり、クリスチャン・スチュワードシップの実践、そしてそうした生き方が宣教に結びついた、ということです。カンバーランド長老教会の「信仰告白」の言葉を使うならば、そうした「恵みの手段」を通してぶどうの木であるキリストにつながり、聖霊のお働きを体一杯に受けて生きていたということでしょう。
そしてもう一つ、彼らの生活を通して教えられる大事なことは、「信仰生活は順序が大切」ということです。信仰生活の入り口は、まず神さまとの生きた関係に入るということです。
その日、主イエスは祭りに集った群衆に向かい「大声で言われた」と福音書に出てきます。祭が盛り上がり、みんな興奮していたのでしょう。祭りやイベントは盛り上がるのですが、終わるとドッと疲れが押し寄せ、「あれは何だったんだろう」と思うこともあります。主は、それをご存知だった。ですから祭で興奮する人々に向かって大声で語られた。「『渇いている人は誰でも、私のもとに来て飲みなさい。私を信じる者は、聖書が語ったとおり、その人の内から生ける水が川となって流れ出るようになる。』イエスは、ご自分を信じた人々が受けようとしている霊について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、霊がまだ与えられていなかったからである。」(ヨハネ7:37-39)
主イエスのところに行って飲むことです。「そのままの枝の状態で、私のところに来て休みなさい。飲みなさい。そして繋がりなさい」という勧めにしたがい、主イエスにつながり続けるのです。
エルサレム教会は生き生きしていました。それは聖霊をいただき、聖霊に満たされ、その満たしを常に経験するためにぶどうの木である主との関係を大切にして生きたからです。そこに「恵みの循環」があったからです。
私たちは、この同じ聖霊なる神さまをいただいている教会、そして私たち一人ひとりが、この聖霊なる神さまを内に宿す神殿として召され、生かされています。「わたしは聖霊を信じます」と告白するとともに、このお方のお働きが、私たちの生活を通し、高座教会を通し、いよいよ豊かに広がっていきますように。お祈りいたします。