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主日共同の礼拝説教

きよい公同の教会を信じます―使徒信条⑰

松本雅弘牧師
イザヤ書12章1-6節
使徒言行録20章17-38節
2021年7月18日

Ⅰ.「きよい公同の教会を信じます」とは?

洗礼入会準備会も終わりの方に差し掛かると、参加者一人ひとりとの面接の時を持っています。その時、ある方が、こんな話をしてくださいました。「以前、南米のペルーを旅行したことがある。その時初めて、キリスト教国と言われる国からやってきたクリスチャンや教会が、神の名のもと多くの現地の人々を殺した事実を知らされた。何故、神を信じ、聖書に学んでいるはずの教会がそんなことをしたのか、出来てしまったのか、自分にはどうしても理解できない」と。
また、一人の若者が話してくれました。「自分はクリスチャンホームに生まれたが、そうではない友だちの家が羨ましかった。自分の両親は二人そろって熱心な教会員だったので、毎週、奉仕に忙しく、とっても寂しい思いをした。教会に両親を取られてしまったかのように感じていた」。彼の話を聞きながら、心痛みました。「本当に申し訳なかった」とお詫びしたことを覚えています。
使徒信条の「わたしはきよい公同の教会を信じます」という告白は、今の私たちにとって何を意味するのでしょう。私たち教会の現実の姿を前に、片目をつぶり、不完全さや弱さは見ないようにし、もう片方の目で良い点だけを見るように、ということなのでしょうか。

Ⅱ.教会はだれのものでもない、神のもの

パウロはミレトスという港町にやって来て、エフェソ教会の長老たちを呼び寄せ別れの説教を語りました。その時の説教が、使徒言行録20章に記されている言葉です。こうした中、残される長老たちにとって自分たちはこの後どうなるのだろうか、と不安になったと思います。その彼らに対してパウロは、次のように語りました。
「私が去った後、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、私には分かっています。また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます。」(29―30)
改めて私たちキリストの教会は、常に危険にさらされていることを知らされます。「残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らす」。敵が教会外からやって来る。それだけではありません。「あなたがた自身の中からも」とあります。この言葉を聞いているエフェソ教会の長老たちは耳を疑ったに違いない。「あなたがた」とは、今、この説教を聴いている自分たちのことでしたから!自分たち長老の中から教会の敵が現れる。では長老たちが何をどうするのでしょう?「邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする」というのです。ここにある、「弟子たち」という言葉は、教会員のことです。教会員はキリストの弟子です。キリストの弟子である教会員を自分に「従わせようとする」。自分の弟子にしようとする。
しかし、それだけで終わっていません。パウロは直前でこう語っている。「どうか、あなたがた自身と羊の群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神がご自身の血によってご自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命されたのです。」(28)
そうです。一言で言うならば、彼ら長老たちに向かって、「教会を宜しく頼む」と語るのです。
ここで見落としてはならない言葉に出会います。「神の教会」という表現です。教会は誰のものでもない神さまのものです。ちなみに、「聖なる公同の教会」の「聖なる」という言葉ですが、聖書特有の言葉ですが、これは「神の所有とされた/神のものとされた」という意味があります。誤解を恐れずに言えば、教会は私たちのものでもないのです。何故?教会とは、「神がご自身の血によってご自分のものとなさった」存在だからとパウロは語っています。
そしてさらに驚くべきことに、その同じ聖霊なる神さまが、「ご自身の血によってご自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命された」。聖霊なる神さまが、御自身のものである教会を、長老たちにゆだねたというのです。
パウロはここで、「あなたたちを信じるということではなく、あなたがたをこの務めに任じている聖霊の働きを信じている。あなたがたもこの聖霊の事実を信じ、受け入れ、そこに立ち続けて欲しい。務めに励んでほしい」、そう語っているわけなのです。

Ⅲ.神とその恵みの言葉とに委ねる

さらに長老たちに語る言葉が続きます。「そして今、あなたがたを神とその恵みの言葉とに委ねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に相続にあずからせることができるのです。」(32)
ここに「造り上げる」という言葉が出て来ますが「家を建てる」という意味の言葉です。新築したり再建したりする。教会も同様です。何度も建て直しを求められます。
今日、礼拝後に懇談会があります。先日アンケートをもとにKMO委員会がまとめた内容についての報告をさせていただきました。アンケートを通して、私たちに与えられた多くの恵みと共に、幾つかの課題も示されてきました。
私たちは、「高座教会ミッションステートメント」にもあるように、「四世代が喜び集う教会」を祈り求めていますが、特に若い世代の教会離れが顕著になってきている。私にとっては耳の痛い内容でしたが、説教が長いし分かりにくい。音楽がしっくりこない。そうした課題も浮き彫りになってきた。今後、具体的にどうするのかを、これからご一緒に祈り求めていくわけですが、ここでパウロは、エフェソ教会の建て直しの必要性を前提に語っている。そして同じことが、今の私たち高座教会にも当てはまるのではないかと思うのです。
教会という信仰共同体を立て直す時に、何に心を留めるべきなのでしょうか。もう一度32節に注目したいのですが、「あなたがたを神とその恵みの言葉とに委ねます」と語り、何よりも神さまは、ご自身の言葉を与えて教会を建てあげ、御言葉を与えることによって何度でも教会を建て直す道を与えてくださっている。ここでパウロは、エフェソ教会の長老たちに、自信を持てと咤激励したのではありません。むしろ自分たちを過信しないように。聖霊なる神さまの働きと、御言葉の力を信頼するように、と語り長老たちを励ましているのです。

Ⅳ.聖霊において、キリストが臨在するゆえに、教会を信じる

実は、パウロの語ったこうしたことを土台として、歴史の教会は教会のことを考えて来ました。教会のことを考える時に必ず引用される、アウグスブルク信仰告白の中の一節がその代表的な例でしょう。「教会とは聖なる会衆であって、福音が純粋に解かれ、聖礼典が正しく執行されるところである」と。教会は神の御言葉が正しく説教され、聖礼典が正しく執り行われることにかかっている。宗教改革以来、私たちは、これを教会の試金石として捉えてきました。そして今日の箇所でも、「あなたがたを神とその恵みの言葉とに委ねます」とあるように、教会にとって御言葉の恵みに与ることがいかに生命線であるのかを改めて教えられます。
このことの例として心に浮かんだのが使徒言行録6章の出来事です。当時、教会には、ギリシャ語を話すユダヤ人とヘブル語を話すユダヤ人の二グループがありました。そうした中、ギリシャ語を話すユダヤ人のやもめたちに行くはずの配給が滞っていることが発覚したのです。教会は問題を解決するために執事職を新設します。使徒たちが担っていた奉仕を分担した。その結果宣教の前進が再び始まったことを伝えています。
ただ気を付けなければいけないのは、事の本質は教会の働きを合理的に行ったからではなく、配給における不公平の根っこにあった「愛のほころび」だと思います。愛が冷めていたから、愛の共同体として成長していなかったからでしょう。
そのために教会はどうしたか。基本に立ち返った。愛が冷めてしまうのは、裏を返せば、神によって愛されている実感が薄れる時です。原因を究明していくと御言葉の務めを担う使徒たちがそうできてない。教会に御言葉の飢饉があったのです。
先ほどのパウロの言葉、「この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に相続にあずからせることができるのです」とあるように、壊れそうになる時、私たちには神の恵みの言葉が与えられている。恵みの言葉をもって建て直すのです。
そして幸いにも神の言葉は恵みの言葉であって審きの言葉ではありません。愛の言葉なのです。まさに、初代教会の先輩たちは、そこに立ち帰った。
私たちが「きよい公同の教会を信じます」と告白しうるのは、信仰共同体である教会の中に共におられる聖霊、そして具体的に御言葉を通して常に私たちを守り導き建て上げてくださる聖霊なる神さまへの信仰のゆえであることを覚えたいと思います。そして、心から、「わたしは教会を信じます」と告白して歩んでまいりましょう。お祈りします。