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主日共同の礼拝説教

あわれみの主

和田一郎副牧師
ホセア書6章1-6節 、マタイによる福音書9章9-13節
2021年7月25日

Ⅰ.マタイの召命

今日の聖書箇所はマタイの召命の場面です。召命とは、神様によって呼び出されることです。マタイが徴税人として働いていた時に、イエス様に「わたしに従いなさい」と呼び出されたのです。つまり、マタイにその仕事を辞めて、わたしの弟子になりなさいと、突然イエス様は呼び掛けたのです。このマタイという人はマタイの福音書を書いたマタイのことです。ですから今日読んでいる「マタイの召命」の箇所は自分のことを書いています。マタイはこの出来事から何十年も経ってから、イエス様との出会いを書きました。マタイの証しと言ってもいい箇所です。この時マタイは徴税人として働いていました。この時代の徴税人という職業は、ユダヤ人の中で大変軽蔑されていました。ローマに納める税金に加えて、自分の取り分も多く懐に入れていました。ユダヤ人からは裏切り者として、締め出されていた人々です。でも、それでもいい、金が手に入るならそれでいい、そのように生きていた徴税人マタイに声をかけたのがイエス様でした。
今日の聖書箇所では「私に従いなさい」と言われ、「彼は立ち上がってイエスに従った」と簡単に書かれています。これだけのことしか聖書は伝えていません。それ故に劇的な印象を残しています。ですから、この場面をモチーフにして絵を描いた人が何人もいたようです。イタリアの画家カラバッジョが描いた「聖マタイの召命」という絵があります。
右端で、マタイに向かって指を指しているのがイエス様です。収税所で「わたしに従いなさい」そう口にした瞬間の絵です。この絵の中でマタイは誰でしょうか。私は中央で指を指している髭の男がマタイだと、ずっと思っていました。「えっ私ですか?」と言っているのかと思っていました。しかし、諸説あって最近では左端に座っている青年がマタイだとする説もあるようです。周りの男たちは、イエス様を見て驚いているにも関わらず、左端の男はじっと机の上のお金を見つめています。片方の手には、金入れの袋を握りしめて居座っている、あたかもお金にしか関心がないかのように見えます。そこにイエス様の側から光がこの男を照らし、その耳にイエス様の声が響いた。「わたしに従いなさい」。その瞬間、その声に、お金を数える手が止まったかのようです。この絵の数秒後何が起こったでしょう。そこに居座っていたマタイが立ち上がった。周りの人はさらに驚いた「まさか、この仕事を捨てて、イエスに従って行くとは」。
この箇所を読んで、人は疑問に思うかも知れません。たった一言で、自分の仕事を投げうってついていくだろうか。漁師だった他の弟子たちはイエス様が死なれた後に故郷に戻って漁師の仕事に戻りました。しかし、徴税人の仕事は一度辞めたら、簡単に戻れる仕事ではない。もしくは実はもっと言葉のやり取りがあったのだけれど、聖書は省略して書いたのだ、と言う人がいるかも知れません。しかし、わたしはここに書かれたやり取りを、そのまま受け入れたいと思います。これだけの会話であったと思うのです。それはなぜか?
イエス様の言葉には力があったからです。イエスの言葉には、人の運命を変える力があります。
無から有へ 悪から善へ 罪から救いへ、そして、闇から光へと変える力があるからです。私たちも同じように罪を抱えた人間であり、そのわたしたちが、罪の中いたとしても、イエス様は立ち止まり、見つめていてくださり、声をかけてくださる。その言葉には力があって、私たちにはそれで十分なのです。「わたしに従いなさい」。なんと力強く愛に裏打ちされた言葉でしょうか。

Ⅱ. 罪人の家で

さて、次の節からは食事の場面に移ります。それはマタイの家だと並行箇所ルカ福音書に書かれています。マタイはイエス様の弟子となることを喜びました。そして、自分の家で食事の準備をしました。そこでイエス様が、弟子たちと多くの徴税人と、罪人を招いて食事をしたのです。マタイだけでなく他の徴税人や罪人とされていた人々が、イエス様に招かれて食事をしていたのです。いわゆる社会の中で失格者とされていた人たちと、食事をしたということなのです。その様子を見ていたファリサイ派という権威ある人たちは、「なぜ、あなたがたの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と質問しました。これは質問というよりも批判です。ファリサイ派の人々は、決して悪人ではありません。むしろ、信仰熱心で真面目な人々です。真面目に生きている人たちが、自分たちが守ってきたものを守らない罪人たちと、喜んで食事をしているイエス様が許せなかったのです。ファリサイ派の人たちだけではなく、誰が見ても、「何でこんな人達と一緒に食事をするのだろう」と不審に思う人たち、怪しむ人たちがいたのです。

Ⅲ. スラム街で

この箇所から思い浮かぶ人物がいました。戦前戦後にキリスト教を広めて、さまざまな協同組合を日本に創設した賀川豊彦です。賀川が神戸のスラム街に移り住んで、貧しい人々の為に働いた姿と重なりました。
賀川は明治21年に徳島県で裕福な家に生まれました。キリスト教の伝道者になろうと決めて、東京の明治学院を卒業して、神戸神学校に通うことになりました。しかし、この時に病気にかかった事が、大きな転機となりました。「結核」にかかり危篤状態に陥ったのです。その頃の様子は賀川が自伝として書いた『死線を超えて』という小説に書かれています。死の宣告を受けたにもかかわらず、奇跡的に回復をするのです。生死をさまよう死線を超えて、賀川は残りの人生を、貧しい人たちの為に身を捧げることにしました。神戸のスラム街に住むと決めたのですが、学業がとても優秀だった賀川を周囲の仲間が何度も止めました。「あそこは君が行くところではない」。「とんでもない悪い連中がいる所だ」と諭すのですが、イエス様が罪人と呼ばれる人達の家に行って食事をしたように、賀川は神戸のスラム街で生活を始めました。
スラム街は想像以上にひどい場所でした。新参者の賀川には金がありそうだと、刃物を持って強請りに来る者、俺が守ってやると近づいては金を要求する者、家に帰ると布団や米が盗まれて壁には拳銃の弾の跡が残っているといったエピソードが次から次へと起こります。長屋に住む女たちは生きるために売春をしていましたし、賀川がもっとも嘆いたのは「赤ん坊殺し」です。望まれないで生まれた赤ん坊を、養育費と一緒に引き取るのですが、そのまま餓死させるということが日常的に行われていた。そのようなことがスラム街では普通にありました。彼らに良心がなかったのではないのです。強請りも盗みも、売春も赤ん坊殺しも、善悪ではない、どれも生きていくための手段でした。世間から見ればあってはならない事ばかりです。しかし、そんな事がありながらも賀川はスラムの生活がシックリ合ってきたというのです。賀川は比較的豊かな生活をしてきました。生きてきた中でスラム街の生活ほど、張り詰めた生活をしたことがなかったと。スラム街を歩いていると、小さいながらも皆生きるために努力している。生きようとする努力に少なからず賀川は心動かされたといいます。スラム街のすべての人を尊敬したとも言っています。たとえ彼らが、ことごとく人生の失敗者であるとしても、彼らの失敗にはそれぞれ尊い失敗の理由があることを発見して、賀川は彼らを尊敬しました。
やがて、スラムに住む子どもたちが賀川を「先生」と呼んで集まってきます。教会に来る者が出てきた。賀川の活動が新聞にも載って応援する人も増えていったのです。スラム街での経験は、その後の賀川の活躍の基盤になっていきました。彼は一旦アメリカに渡米した後、神戸で協同組合運動を始めました。生活クラブとかコープといった消費者協同組合を日本で創設したのです。またJAと呼んでいる農協も、企業の中にある労働組合も賀川の尽力で作られたものです。当時発言する力が乏しかった労働者、消費者、農業従事者たちを、組合という形で団結させたのです。
スラム街の住人たちの、生きづらさの真っただ中へ入って彼らと一緒に過ごすことは、イエス様が示した愛の姿です。イエス様は罪人を救うために、ご自身を低くしてくださり、この地上に来てくださいました。さらに罪人を救うためには、罪の真っただ中まで入っていかなければならなかったのです。

Ⅳ. あわれみの主

今日の聖書箇所に戻りますが、12節「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」とあります。ここで医者を必要としていたのはマタイです。マタイは丈夫な人などではない、お金にしがみつくしかない病人でした。しかし、そこに「わたしに従いなさい」というイエス様の言葉が耳に入ったのです。医者を必要としていたマタイの耳に憐れみ深い声が響き、心を動かしたのです。なぜなら、マタイは心のどこかで、それを求めていたからです。マタイは憐みを求める病人でした。
つづいて「私が求めるのは慈しみであって、いけにえではない」と言われました。イエス様に差し出す、いけにえなど必要ありません。この自分を憐れんでほしい、慈しんでほしいと、マタイは心の何処かで求めていたのです。通りかかったイエス様は、それを知って収税所にやって来た。偶然ではなく、うつむいて、お金ばかり見ていたマタイに向けて声を掛けてくださったのです。なぜなら「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言われた通りです。

わたしたちも、マタイと同じように医者を必要とする者です。医者を必要とする罪人です。しかし幸いなことに、神の愛は私たちが罪人であっても、いや罪人であるが故に、憐みと慈しみに与れるということです。罪人であるが故に招かれている。
「わたしに従いなさい」。この言葉には人を変える力があります。人を動かす力がある。マタイは収税所に居座る罪人から、立ち上がって『マタイによる福音書』を書いた証し人になりました。私たちもこの一週間、求める人のただ中に入っていきたいと思うのです。それぞれの持ち場で、憐みの主を証しする者でありたいと願います。お祈りをいたします。