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主日共同の礼拝説教

聖徒の交わり―使徒信条⑱

松本雅弘牧師
出エジプト記16章1節-12節
ローマの信徒への手紙12章1節―21節
2021年8月1日

Ⅰ.教会は「聖徒の交わり」、それとも「罪人の集まり」?

私たちクリスチャン生活のなかで、よく「躓く」という言葉があります。牧師に躓いた、教会員に躓いた。小会のやり方に躓いた。それが原因して教会の交わりから、礼拝から遠のいてしまう。残念ながらそうしたことが起こる現実があります。
そのような時、よく聞くのが、「牧師も人間だから」とか「教会は罪人の集まりだから」という言葉です。ただよくよく考えてみれば、これは真実の片側しか語っていない。もう片方の大切な側面を忘れた物の言い方であるように思います。
例えば、コリントの信徒への手紙の最初に、次のようなパウロの言葉が出てくるのをご存じでしょうか。
「コリントにある神の教会と、キリスト・イエスにあって聖なる者とされた人々、召された聖なる者たち、ならびに至るところで私たちの主イエス・キリストの名を呼び求めるすべての人々へ。イエス・キリストは、この人たちと私たちの主です。」(1:2)
コリント教会の兄弟姉妹を指して、「聖なる者とされた人々、召された聖なる者たち」と呼んでいる。実は、この手紙を読みますと、コリント教会には様々な問題があったことが分かります。妬みから生じる教会員の間での紛糾、性的不道徳の問題、そして、起訴事件までありました。
ところがパウロは、問題だらけのコリント教会の人々に向かって、「コリントにある神の教会」、「聖なる者とされた人々、召された聖なる者たち」と呼んでいるのです。真心からそう呼び掛けている。何でパウロはそう呼べるのか。そうした問題意識を持って、そう呼ぶパウロの言葉を注意深く読むと、そこに一つのキーワードがあることに気づきます。それは、「キリスト・イエスにあって」という言葉です。
ある時主イエスは、一つの譬えを話されました。婚宴が準備されたのに招かれた人は誰も来ようとしない。最後に王は、家来たちに向かって、「町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい」と命じたというのです。一方的な恵みによって招かれるという話です。ただ、一つだけ条件があった。王様が用意した「礼服」でした。「キリストを着る」。キリストが礼服なのです。父なる神が自らの手で、私に着せてくださる礼服、それはメシア・イエス以外にない!主イエスはその礼服を用意するために、十字架にかかってくださった。
パウロは、様々な問題を抱えていたコリント教会の兄弟姉妹に向かって、あなたがたはキリストという礼服を着せていただいた者たちなのですよ、と自分自身が誰なのかに気づかせているのです。

Ⅱ.「聖徒の交わり」が持つ二つの側面

今日は「わたしは、聖徒の交わりを信じます」という告白を学んでおりますが、「聖徒の交わり」という言葉には二つの側面があると言われます。
一つは、私たちクリスチャン、教会員同士の横の交わり。そしてもう一つは、聖なる神との縦の交わりという側面です。つまり「聖徒の交わり」とは、生きて働かれる神さまのとの交わりに支えられているクリスチャンの相互の交わりということでしょう。
2001年、小会は、現在のKMO委員会と同じような委員会、コミュニティー教会委員会を作りました。小会、執事会、世代別会、委員会の代表者が集まってまずは現状をラベル分析しました。その結果を踏まえ、まとめたものが三つの「めざすもの」で、その一つ目のが「温かく小さな群れによって成長する契約共同体の実現」です。
ここで突然、「温かく」という言葉が出て来ます。ラベル分析をする中で、教会員数が増えたことは恵みなのだが、反面、温かい家庭的な雰囲気が失われてきたのではないか。そんな反省から出て来た言葉です。しかし教会が家庭的で温かであるとか、逆に冷たいとか、確かにそうした視点は大事なことですが、そこだけを見ているとするならば、やはり足りないのではないかと、最近思うことがあります。今日の使徒信条の告白によるならば、「わたしは聖徒の交わりを信じます」と告白する時に、私たち兄弟姉妹の横の交わりが「聖徒の交わり」であり続ける前提には、私たちが聖なる神さまとの縦の交わりに支えられている、生かされているという前提がどうしても必要です。
週報を見ますと、「温かく小さな群れによって成長する契約共同体の実現」の後に聖書箇所が書かれています。ヨハネ福音書13章34節と35節です。
「あなたがたに新しい戒めを与える。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたが私の弟子であることを、皆が知るようになる」という主イエスの言葉です。
「互いに愛し合う」という「聖徒の交わり」が成立する前提に、「私があなたがたを愛したように」という主イエスの愛がしっかりとある。それが聖徒の交わりを支えるからです。ここを無視し、ただ横との交わりがどれだけ親しくなっていったとしても、教会が教会となっていくことから離れてしまう危険性は大いにあるのではないかと思うのです。
主イエスは、弟子たちを育てるために、主に二つのことをなさいました。一つは、主イエスとの縦の関係を培うために自分のそば近くに置くこと。もう一つは弟子たち同士の横の交わりを経験させることでした。今日の言葉で言えば「聖徒の交わりに生きる」ということでしょう。この二つが、クリスチャンの成長にとって不可欠だったので、主はそうなさったのでしょう。
ある日、律法学者が主イエスのところにやって来て、「私の隣人とは誰ですか」と質問して来たことがありました。それを受けて主イエスは『よきサマリヤ人の譬え話』を語られました。この出来事は、私たちにとても大切なことを教えているように思います。それは、実践がない、頭だけで信仰を捉えていこうとすると、結局、隣人が隣人でなくなる。すでに多くの隣人に囲まれて生きていたはずの律法学者の目には、神さまが置いておられる、そうした方々の存在が視野に入らない。ですから、「私の隣人とは誰ですか」と主イエスに問うてしまっている。
ですから主イエスは律法学者に向かって、「あなたがその人の隣人になりなさい」とチャレンジされたのです。弟子たちが、「聖書読みの聖書知らず」にならないために、具体的に兄弟姉妹を愛するように、具体的に御言葉に生きるように、初めから弟子たちを「聖徒の交わり」の中に置かれ、「私の隣人とは誰ですか」と、とぼけた質問をする必要がない状況のなかに弟子たちを置かれたのです。
そうした「聖徒の交わり」の中には、様々な個性の弟子たちが居ました。彼らの好みに任せたら、決して自分の方から友だちとして選ばないであろう者たちの交わりの輪の中に彼らを置いて、そこにおいて彼らの信仰を訓練なさった。
私たちに当てはめるならば、それが私たちの招かれた高座教会という聖徒の交わりです。そこには世代も違う方たちがおられます。そりが合わない人もいるでしょう。でも共に主を見あげ、「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」とチャレンジなさった、その「聖徒の交わり」が実現していく時に、神さまを知らない周囲の方たちにとって、証しとなる、伝道となる、とおっしゃるのです。

Ⅲ.救いの恵みに対する応答として「聖徒の交わり」

さて、今日のローマの信徒への手紙は、パウロがローマの教会に宛てて書いたもので、これから訪問したいと考えているローマの教会の兄弟姉妹に対して、ただ主イエス・キリストの十字架の贖いによってのみ、私たちは義とされる。それを信じることが何よりも大切。そうしたメッセージをローマの教会に向けて書いたのが、この手紙です。
そして、この12章では、11章まで説かれてきた、言わば、「キリストという礼服」を私たちに着せてくださるために、神さまは何をしてくださったのかを受けて、「こういうわけで」と、「キリストにある新しい生活」と説いていくのです。

Ⅳ.「聖徒の交わり」に生きる

15節に、「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」とあります。これは、私たちが心から願う、人間らしい生き方なのではないでしょうか。でもなかなかできない。しかし私たちが神さまの愛に浸り続けていく時に、聖霊の働きの中で「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣」ける者たちに変えられていく。そしてそのような交わりが高座教会の中に形作られていく時に、「それによってあなたがたが私の弟子であることを、皆が知るようになる」と主イエスが約束してくださった、周囲の人々への証し、宣教する教会の姿として用いられていく。
「わたしは、聖徒の交わりを信じます」と告白する時に、このような恵みを心に覚えつつ、心から告白するものでありたいと願います。
お祈りします。