松本雅弘牧師
詩編51編3節-19節
マタイによる福音書18章21-35節
2021年8月8日
Ⅰ.はじめに
今日のテーマ、「罪のゆるしを信じます」と告白する時に、私たちは何を信じ告白するのでしょう。今日は、このことを考える上でマタイ福音書18章で「罪」と「罪の赦し」、また「罪の赦し」が私たちの信仰生活のなかでどう具体化するのかについて、本当に丁寧にお語りくださった譬え話に耳を傾けるところから始めたいと思います。
Ⅱ.仲間を赦さない家来の譬え話
この話の中で、神さまが王様/主君に譬えられています。そのお方に対する私たち人間の罪、負い目というのは、私たちが一生かかって努力し、どんなに償おう頑張ったとしても、償い切れないほどのもの。ところが、神さまは私たちの負債を帳消しにしてくださる。罪のゆるしとはそうしたものであることを、主イエスはこの譬えを通して、語ろうとしている。
そしてもう一つ、莫大な借金を帳消しにされているにもかかわらず、僅かな額を借金していた仲間を赦さない、この家来を神さまにたとえられている王様/主君は罰するわけです。
このように主イエスはこの譬え話を通して、神の赦しと、その赦しを経験した私たちが人を赦すことが切っても切り離せない関係にある、セットなのだということを語ろうとなさったのです。このことをよく示しているのが、昨年の主題聖句、Ⅰヨハネ4章19節は、「先行する赦し/先行する愛、先行する恵み」を語る御言葉、「私たちが愛するのは、神がまず私たちを愛してくださったからです。」
私たちが心に留めなければならないこと、それは「はじめに赦しありき」という恵みの現実なのです。神がまず愛してくださったという「先行する愛、先行する恵みの現実」です。それも主君がこの家来を赦してやった時、何の条件もつけなかった。無条件、無制限の赦しなのです。
Ⅲ.「罪のゆるしを信じます」とは?
ところで、今日の「招きの御言葉」、Ⅱコリント5章17節は「わたしは罪のゆるしを信じます」という使徒信条の告白の意味を伝える大切な聖句と思われます。それは、「わたしは罪のゆるしを信じます」と信じ告白するということは、自分が新しく造られた者となった。新しくなったことを信じることだからです。この点についてパウロは、この聖句の直後に続けてこう記していきます。
「だから、誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去り、まさに新しいものが生じたのです。これらはすべて神から出ています。神はキリストを通して私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに授けてくださいました。つまり、神はキリストにあって世をご自分と和解させ、人々に罪の責任を問うことなく、和解の言葉を私たちに委ねられたのです。」(Ⅱコリント5:17-19)
なぜ新しくなったのか。それは、19節で繰り返すように語っていますが、「神はキリストにあって世をご自分と和解させ、人々に罪の責任を問うことをなさらない」から。それが答えです。私たちが「わたしは罪のゆるしを信じます」と告白する。罪が赦されているということは、イコール罪の責任を問われなくなる、ということ。罪の責任が取り除かれるということなのです。
使徒信条の学びで何度か引用していますが、『ハイデルベルク信仰問答』の問い56がまさにこの点についての問答となっていますのでご紹介したいと思います。
問い:あなたは「罪の赦し」について何を信じますか。
答え:神はキリストの償いのゆえに、私のあらゆる罪、同様に、私が一生涯にわたって戦わなければならない罪深い本性も、もはや決して思い起こそうとはなさらず、むしろ恵みに基づいて、キリストの義を私たちに与え、もはや私が、決して裁きを受けないようにしてくださるということです。
考えてみれば、これは驚くべき恵み/アメイジング・グレイスなのではないでしょうか!これが神さまが私を見ていてくださる見方。キリストという礼服を着せていただいているのです。そして、このような赦しを、神が私たちにお与えくださった。そのことを伝えようと主イエスはこの譬えを語り、そのことを私たち一人一人の者とするために、十字架にかかり甦ってくださったのです。
私たちが、聖霊のお働きの中で、この恵みを味わい、この恵みに留まる時に、まさに主イエスが譬えを通して伝えたかった、恵みに応答する生き方が、私たちの心の内に芽生えて行くのではないでしょうか。
そのことで思い浮かぶのが、申命記に出てくるモーセがイスラエルの民に示した一つひとつの生き方です。出エジプトという救いの恵みの出来事を経験したイスラエルの民に対して、その恵みを忘れないように、いつも思い起こすように、その恵みに留まり続けるようにと説いた後、今度は彼らイスラエルの民に向かって、神の民とされた者にとってふさわしい生き方が、モーセを通して語られました。その中でも私が大好きなのが、申命記24章に出てくる、落穂拾いにかかわる教えの箇所です。作物を刈り入れする時に、自分の畑で実ったものを全部収穫してしまうようなことはするな、という教えです。
ぶどうの実を摘み取って、もう一回歩き直して、残っている房を全部集めるとか、麦の穂を刈り取った後に、まだ残っている穂があるならば、全部それを拾い集めて、「これは皆、私の物、誰にもあ げない」と言うよりも、落ちたら落ちたでよい、残ったら残ったでよい、いやむしろ、敢えて残すようにしなさい。何故なら、収穫する当てもなく、ここに生きているやもめたちや身寄りのない子どもたち、外国から来た寄留者たちのために、自分たちが収穫した後、「さあ、どうぞいらっしゃい、あなたがたの取り分はここにありますよ」と、言ってあげなさい、と教えるのです。そしてその一番の理由は、「あなたはエジプトで奴隷であったが、あなたの神、主が、あなたをそこから贖い出されたことを思い起こしなさい。それゆえ、私はあなたにこのことを行うように命じるのである。」(申命記24章18節)これが理由です。
私たちにとっては主の食卓を囲み、キリストの十字架の贖いを思い起こすことでもあり、そしてまさに、「わたしは罪のゆるしを信じます」と告白する私たちがあずかる恵みの生き方でもあるのです。
Ⅳ.赦しとは新しく造られた者として生きること
最後にもう一度、譬え話に戻りましょう。この家来の姿は、本当に神さまの赦しの愛を実感できていない時に生じる、私たちの姿そのものを示しています。
彼は仲間にお金を貸している。貸しているから、当然、返すように主張しておかしくない。つまり、そのことだけを切り取って考えるならば、彼の主張に誤りはないのです。ですから、常識的には誰もこの家来を非難することは出来ないことだと思います。
ただ、にもかかわらず、この家来がしていることはどこか間違っている、と私たちは感じる。それは何故か。それはすでに私たちの心の目に神さまとの関係という縦軸がはっきりと見えてしまっているからでしょう。だから彼の行動を、神との縦の関係に照らして、違和感を覚え、おかしいと思うのです。主イエス・キリストは「借金帳消し」をするために、十字架で死んでくださった。その犠牲によって、私たちは赦されているのです。
今日、この後、私たちも派遣の言葉をもって派遣されて行きますが、この生き方こそ、先行する赦し、先行する神の愛を知らなければ決して選び取れない生き方、神の愛にどっぷり浸っている者でなければ、生き得ない素晴らしい生き方でしょう。
力強い神が共におられ、神が守って下さるのだから、私たちは勇気を持つことが出来る。そして神ご自身が全ての善悪の決定的な基準ですから、そのお方の前に生きている者として、そしていつか、自分の人生の総括をそのお方の前でする者として、人が見ていても見ていなくても、私たちは、「いつも善を行う」ことを選び取るのです。
そして、そのお方が最終的に悪に報いられるわけですから、私たち自らの手で悪に報いる必要はありません。むしろ相手の益を求め、「気落ちしている者たちを励まし」、弱さを抱えている人たちの支えとなり、困難の中にある人を助け、すべての人を尊重するように。何故なら、私たち自身がすでに神さまから最大のリスペクトをいただいているわけですから。
私たちが「わたしは罪のゆるしを信じます」と告白する時に、まさにこのような徹底的な赦しを神さまが与えてくださっていることを心に留め、今度私たち自身が、その恵みをもって、周囲の方たちに愛をもって仕えていく者へと新しくされた者として生きていく。これこそが、「わたしは罪のゆるしを信じます」と告白する意味であることを覚え、主に感謝しつつ、この一週間を歩んでいきたいと願います。
お祈りします。