松本雅弘牧師
創世記 1章1~2、26~31節
コリントの信徒への手紙一 15章35~58節
2021年8月15日
Ⅰ. はじめに
ある方が、私たちは望みにおいて救われている。希望を持って生きることができるし、同時に希望をもって死ぬことができる。私たちの信仰はそういうものだ、と語っていました。主イエス・キリストが再び来てくださる、しかも、救いを完成しにやって来てくださる。確かにそうした希望をもって生かされています。
Ⅱ.「からだのよみがえり」とは
さて、今日のテーマ、「からだのよみがえり」について考えてみたいと思います。
創世記には、神である主は、私たちにまず体を造ってくださって、その体に神の息を吹き込んで、その結果一人の人間として生きる者とされた、と書かれています。この神の息が人を人として生かす霊となったわけです。その聖霊の働きが私たちの体、すなわち肉体をも生かすものであり、肉体のない人間存在を聖書は想定していないわけです。ところが、使徒信条が生み出されていく背景に、教会の中に一つの問題提起がありました。それが、当時教会の内外にあった、いわゆる「霊魂不滅の信仰」で、肉体はやがて腐り滅びるが、肉体に宿る霊魂は不滅だ、という考え方です。
これは元々ギリシャ哲学の考え方でしたが、いつの間にかそれが教会の中に入り込んだ。その結果、肉体はつまらない物。それに対し霊魂こそは永遠のものと考えるようになってきた。確かに、こうした考え方は、私たちの感覚に近いかもしれません。
コロナ禍で、暑い日々が続くと、肉体を持って生きることは、時として大変な重荷となります。まして、歳を重ねて行けば行くほど、衰えていく自らの体をもてあますことがあるのではないでしょうか。そして肉体の問題は、年寄りだけの問題かと言えばそうではありません。若者は若者で肉体に宿る欲望に対してどう対処したらいいのか。どうしようもない思いを抱くことがありように思います。
ですから多くの宗教や哲学は、どうしたら肉体の重荷から解放され、自由な精神、魂の世界に憩うことが出来るのか。昔から人はそれに憧れ、その結果、宗教や哲学は、真面目に、そうした私たちが抱える課題に応えようとしてきたわけです。その結果、「霊魂不滅」という思想や霊肉二元論の思想が誕生しました。そして、こうした教えが初期の教会の中に入り込み、行き着くところまで行ってしまった。
このことが実は、コリントの信徒への手紙第一の手紙が扱っている、教会が抱えているもう一つの大きな課題だったわけです。ですから、ただ漠然と「よみがえりを信じます」という告白ではなく、神さまの救いは私たちの存在全部をひっくるめてのことであるので、敢えて、「からだのよみがえりを信じます」と告白し、肉体と魂/霊を全部ひっくるめて、ここで「からだ」という言葉で使徒信条は表していることを、まず心に留めたいと思います。
Ⅲ.「からだのよみがえりを信じます」とは
さて、今日はコリントの信徒への手紙第一の15章を取り上げました。この章全体は復活に関わるパウロの教えであることが分かります。例えば、20節と21節を見ますと、パウロはこのように語っています。
「しかし今や、キリストは死者の中から復活し、眠りに就いた人たちの初穂となられました。死が一人の人を通して来たのだから、死者の復活も一人の人を通して来たのです。」(15:20―21)
ここでパウロが言わんとしているのは、私たちの復活は、すでに起こった主イエス・キリストの復活の出来事によって保証されている、ということです。キリストが復活されたのだから、私たちも復活する、とパウロは語っているのです。
ここでパウロは、「眠りに就いた人たちの初穂」という表現を使いました。聖書によれば「初穂」とは、「神さまに先ず捧げる大切なもの」です。聖書の世界では、「初穂は神さまのもの」なのです。しかも、その後に続く豊かな実りを先取りするものが「初穂」です。パウロは、「キリストの復活が初穂だ」と言うことで、当然、キリストの初穂に続く豊かな実りがある。「その初穂に続く豊かな実りが、私たちの復活だ」とパウロは語るのです。それゆえに、「すでに主イエス・キリストが復活されたからには、その事実が、将来における、私たちの復活を約束する確かな出来事、根拠となるのだ」と教えるのです。
さらに死んだ人々のことを「眠りに就いた人たち」と表現します。死を「眠り」と呼ぶのです。よく私たちが口にする「永眠」ではありません。あくまでも「眠り」という言葉を使います。何故なら必ず目覚めるからです。眠っている人たちの目覚め、復活の初穂として、主イエス・キリストが既によみがえられた。そのような意味で、終わりのときの死者のよみがえりが、実はキリストの復活においてすでに始まっているとパウロは語るのです。
さて、そうした中でコリント教会には、「しかし、死者はどのように復活するのか、どのような体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。」と問う人がいました。
この地上での生涯が終わりますと、葬儀をします。葬礼拝の後、火葬し骨にしてしまいます。あるいは自分の母は若くして召された。息子の私は、60歳を過ぎたけれども、復活したとしたら、何歳の姿で復活するのか等々。
そのように考えて来ますと、魂だけが生き続けている。眠っているのも魂だし、終わりの時に甦るのも魂だ、と考えた方が分かり易い。私たちの救いが肉体と関係がないところで起こると受け止めた方が腑に落ちる。そう考える人が教会の中にもけっこう現れていた。
これに対する丁寧な答えが36節から出て来ます。パウロは、体が復活すると聞いた時に、自分の肉の体を見て、これがどうして終わりの時に甦るのだろうか、私が死んだら、この手足も朽ちてなくなってしまうではないか、などと考える人々に向かって、自然のいのちを宿す体は、地に落ちて死ぬ種に等しい。そこから生まれる新しい復活の体は「霊の体」と呼ばれる「新しい体」である。霊の体は、今現在のような、私たちの見る通りの体ではない。しかし体をもって復活するということは明らかなのだ、とパウロはそう主張するのです。
Ⅳ.キリストに似た者としての復活
では、霊の体とは何だろうか。パウロはそれにも答えています。
「最初の人は地に属し、土からできた者ですが、第二の人は天に属する方です。土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天上の者たちはすべて、天上のその方に等しいのです。」
パウロははっきりと答えます。土から造られたアダムのように土からできたものですが、しかし復活する時には、アダムに似た者としてではなく天に属し天から来てくださった第二のアダムと呼ばれるキリストのようになるというのです。キリストに似るのです。
ところで、「からだのよみがえり」を考える上で、よく引用される聖句があることを知りました。それは、第一ヨハネの手紙第3章2節です。
「愛する人たち、私たちは今すでに神の子どもですが、私たちがどのようになるかは、まだ現わされていません。しかし、そのことが現されるとき、私たちが神に似たものとなることは知っています。神をありのままに見るからです。」
「そのことが現されるとき」と聖書協会共同訳聖書では訳されていますが、口語訳では「彼が現れる時」、新共同訳では、「御子が現れるとき」、新改訳でも「キリストが現れたなら」と訳しています。つまりキリストの再臨の時のことです。その時に、私たちは、「私たちが神に似たものとなる」、キリストに似た者となることを私たちは知っている、というのです。
私たちは、一人ひとり個別性をもって生まれて来ました。背の高さや容姿、人様々です。身体機能の面でも一定水準以上の機能を有する体の人もいれば、生まれながらに障碍やハンディキャップを抱えて生きる人もいます。「自分の体は何故こうなのだ」と、自らの「所与」について悩み嘆き、神を恨む思いと戦っている人もいるかもしれない。しかし、使徒信条が告白する希望とは何か?それは、私自身が新しくされる。この肉体も含めて変えられる!新しくされる。今日の箇所でパウロが、「弱いもので蒔かれ、力あるものに復活」すると語るように、そこには大きな非連続/変化がある。と同時にそこで甦らされるのは、他の誰でもない、「この私の体」であることを、聖書は教え、そして使徒信条は告白している。
キリストはよみがえられた。そして再び来られる。その時キリストに似た私として体ごと復活する。その恵みを期待して、歩んでいきたいと願います。
お祈りします。