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主日共同の礼拝説教

そして子になる

和田一郎副牧師
ハバクク書 3章17-19節
ローマの信徒への手紙8章18-25節
2021年8月22日

Ⅰ.父と子

今日の説教のテーマは「父と子」がテーマです。
今月うちの息子は4歳になりました。私がもし「どんな瞬間が一番うれしいですか?」と聞かれたら、息子に「パパ」と呼ばれる瞬間です。それは、私を育ててくれた父も、かつてそうだったのだろうと思うのです。私は思春期に入った中高生の頃から「大人になったら父のような人にはなるまい」と思っていました。父はいつもキャッチボールをしてくれて、子ども会のソフトボールの監督をしたり、人懐っこくて優しい人でした。しかし、仕事から帰って来るとお酒を飲んで不機嫌にしている人でした。母との喧嘩も絶えなかったので、母は幸せではない。それは父のせいだと思っていたので、そんな父のような人にはなるまいと、思いました。社会人になって家を出て数年後、母は癌で1年の闘病生活で天に召されました。その闘病生活の中で父と喧嘩になりました。母は一旦退院しても再発する可能性が高いと言われていたので、その苛立ちから言い争い取っ組み合いになってしまった。その時、父が真っすぐに私を見て言いました。「俺は世界中の誰よりもお母さんのことを愛しているんだ」いつも不機嫌だった父の口から「愛している」という言葉がでてくるとは驚きでした。父の本来の優しさを見た思いでした。母が死んで一人暮らしになった父と私は、見違えるように仲良くなったのです。その父も14年前に天に召されました。
数年前、私は家族三人で旅行で出かけることがありました。家族で楽しく過ごしたいと期待していました。しかし、出発の時間に遅れ、現地には遅刻するのが確実、途中で忘れ物に気が付き車の中でイライラして爆発しそうになりました。その時のことをある人に話しました。せっかく家族で楽しむはずの旅行で思い通りにならずイライラして楽しむどころじゃなかったと。そして、自分の正直な思いや、これまでの思いを次々と話していった時、ふっと自分の口から出た言葉に驚きました。「自分は良き夫、良きお父さんになりたいんだ」という自分の言葉でした。平凡な言葉ですが、そのようなことを意識したことはありませんでした。「良き夫、良き父になりたい」誰だってそう思う当たり前のこと。しかし子どもの頃から刷り込まれた「父のような大人にはなりたくない」というかつての思い。現実はあの頃の父に似ているのではないか。私の死んだ父も「良き夫、良きお父さん」になろうとしていたのではないか? 思ってはいるけど、その通りになっていない現実。私の苛立ちと父の不機嫌な姿が重なる思いがしました。

Ⅱ.「将来の栄光」

今日の聖書箇所18節には「将来の栄光」という見出しがあります。これは将来キリストが来られる再臨の時に、私たちが完全に神の子とさせていただく栄光という意味です。
18節「今この時の苦しみは、将来私たちに現されるはずの栄光と比べれば、取るに足りません」とあり「今この時の苦しみ」というのは、私たちの地上の生涯は苦しみがともなうと言っているのです。それに対する「将来・・現されるはずの栄光」の時というのは、今は隠されていますが、将来再臨の時に完全なる神の子とされる喜びの時、栄光を受ける時です。今もクリスチャンは神の子とされていますが栄光にあずかるのは将来です。しかし、それまでのこの地上の人生には忍耐がともないます。再臨の希望があるといっても、私たちの人生にある悲しみや苦難に忍耐して、再臨の時を待ち望む必要があります。これが今日の聖書箇所の大筋です。

Ⅲ. 養子にしていただくこと

将来の栄光とは、完全なる神様の子とされることだと言いました。23節には「子にしていただくこと」とあります。神様の子とされることは、私たちにとっても喜びですが、神様の側からしても、私たちをご自分の子とすることは、心から願っている最終的な目的です。
エフェソの手紙1:4-5に次の言葉があります。「(神は)天地創造の前に、キリストにあって私たちをお選びになりました。私たちが愛の内に御前で聖なる、傷のない者となるためです。御心の良しとされるままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、前もってお定めになったのです」
神様は天地創造の時からすでに、私たちを、ご自分の子にしようと定めておられました。しかも、ただ自分の子にするのではなく、愛する者に対して愛をもって子にしてくださるというのが、神様の御心の根源であり最終目的です。ところで、イエス様も神様の子です。イエス様と同じ私たちも神の子でしょうか。
23節「子にしていただくこと」と、日本語で「子」とありますが、原語のギリシャ語では「養子」と書かれています。英語では”adoption”。ですからパウロは、神の「養子にしていただく」と書きました。当時の社会でも養子は親の財産を受け継ぐことができる権利があったからです。つまりアブラハムの子孫に与えられるという祝福を相続する権利が養子にもあるのです。神の独り子イエス様を長男として、私たちは養子とされました。余すことなく神様の祝福に与ります。長男のイエス様が復活されたように、やがて私たちも復活の体を得ることができます。それが将来の栄光です。
日本は養子縁組や里親の引き取り手が少ない養子後進国ですが、私たちクリスチャンは霊的に神様の養子にされました。霊的な孤児であった者が養子にされたことで、神の家族という温かい交わりの中で生きています。自分が養子として恵まれたのだから、私も親のいない子どもを養子に迎える。これがキリスト教世界観によって培われた欧米社会にあるようです。
「子にしていただくこと」は私たちの祝福でありますが、神様の御心も「私の子になって欲しい」「一人でも多くの人が、私の子となって神の家族を築いていきたい」。それが神様の御心だと覚えたいと思います

Ⅳ.心に記された神の律法

今日の箇所では、神の子とされる将来の喜ばしい栄光だけではなくて、それまでの地上の生涯における「忍耐」が必要だと書かれています。18節「今この時の苦しみ」、22節「共に呻き、共に産みの苦しみを味わ」いながら、25節「忍耐している」とあるのです。ここに書かれている、「今この時の苦しみ」と、「忍耐」とはいったいどんな事なのか、考えたいと思います。
ここで一つの問いがあります。人はみな罪人だと言われます。クリスチャンであってもそうでなくても罪の性質があります。罪人なのに善い行いをしている人はたくさんいます。それはなぜでしょうか。
人間は天地創造の業の中で、神のかたちに創造されました。神様に似たものとして、神様の性質である愛という特性を与えられて造られました。しかし、その後アダムとエバの罪による堕落によって、人間に罪の性質が入ったわけです。ですから人間には「原罪」という、生まれながらにしてもっている罪があります。この原罪によって人を傷つけ、神を中心としない自己中心という性質を持ち続けています。しかし、もともと神のかたちに造られた私たちの心の中には、神のかたちの性質も残っているのです。
「こういう人々(異邦人)は、律法の命じる行いがその心に記されていることを示しています。彼らの良心がこれを証ししています。また、互いに告発したり弁護したりする彼らの議論も、証ししています」(ローマ書2章15節)
「律法の命じていることが、心に記されている」とあります。律法とは神様の律法です。クリスチャンではない異教徒が正しい行いをするのは、心の中に神の律法が記されているからだとパウロはいっているのです。神のかたちに造られた、私たち人間の心の中には、造り主である神の律法が記されています。神の律法というのは、神の性質を反映した愛の律法です。神を愛し、隣人を自分のように愛することが心に刻み込まれているのです。これはアダムとエバが罪を犯した後も同じ状態です。原罪がありながらも、人間の中には善悪をわきまえて、善を行い悪をよしとしない分別は残っています。確かに罪によって神を中心とする性質ではなくなり、人間本来の姿を失っていますが、造り主である神の愛の律法が、人間の心に記されていることに変わりはありません。ですから、ローマ書2章15節後半に「互いに告発したり弁護したりする」というのは、人間の心の中で原罪という罪の性質と、神のかたちに造られた神の愛の律法が互いに争っているのです。「罪」と「愛の律法」とが心の中で葛藤するということが起こってしまうのです。ですから人間は矛盾した生き物なのです。
この「罪」と「神の律法」とのせめぎ合いが、今日の聖書箇所に記されている「今この時の苦しみ」であり、「呻き」であり、25節にある「忍耐」の意味です。
苦しみと忍耐を繰り返しながら、私たちはイエス・キリストに似たものへと変えられていき、やがて完全なる神の子としての栄光に与ることができるのです。

Ⅴ. そして子になる

今日私は父との証しを話しました。父も私も、家族を前にして本来自分はこうありたいと願うことと、自己中心という自分の至らなさの狭間で悩みを抱えます。「よい夫、良い父でありたい」と願いながら、自分中心のよい夫であり、自分中心の良い父なのかも知れません。まさに神の愛の律法を心に記されていながら、自己中心という罪の性質との狭間で悩みを抱え続けます。
それでも、私たちの歩むべき道は心に記されている神の律法に従って、天の父なる神様の御心を求め続けるということです。私の一番うれしい瞬間が息子に「パパ」と呼ばれる瞬間であるように、天の父に向かって「アッバ父よ」と親愛を込めて呼びかける関係は、神様の御心にかなったことです。天の父と、子とされた私たちが良い関係であることが人間の本来の姿です。
この地上の生涯においては忍耐が必要ですが、将来の栄光を希望として、子とされたことを共に喜びましょう。神が与えてくださった希望は失望に終わりません。
この一週間が、神の子として相応しい歩みとなりますように。お祈りいたします。