松本雅弘牧師
ヨブ記19章1-27節
コロサイの信徒への手紙3章1-11節
2021年8月29日
Ⅰ.はじめに
私たちカンバーランド長老教会の信仰告白の冒頭に、一つの聖句が掲げられています。皆さん、よくご存じのヨハネ福音書3章16節です。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
これは、聖書の中の聖書、聖書の急所と呼ばれる聖句で、カンバーランド長老教会に集う私たちにとっても大切な御言葉です。ここに「永遠の命」という言葉が出て来ます。今日は使徒信条の学びの最終回になるわけですが、「永遠の命に与る」ことは、どんな恵みであるのか。今日は、「わたしは永遠の命を信じます」と告白することの意味について、ご一緒に考えてみたいと思います。
Ⅱ.聖書が語る「永遠の命」とは
ところで新約聖書には「命」を表すギリシャ語が3つあります。「プシュケー」、「ビオス」、そして「ゾーエィ」という言葉です。例えば主イエスは、「体は殺しても、命(プシュケー:)を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、命も体もゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(マタイ10:28)と語られた時、ここに出てくる「命」という言葉が「プシュケー」というギリシャ語で、辞書を引くと「魂、息、心」という意味もあります。
2つ目は、「ビオス」というギリシャ語で、例えば第一ヨハネ2章16節に使われています。「すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、見栄を張った生活(ビオス)は、父から出たものではなく、世から出たものだからです。」この「見栄を張った生活」の「生活」が「ビオス」という言葉です。辞書を引きますと、「生活、生涯、一生」という意味があります。
ところが、この2つに対して、3つ目の「ゾーエィ」というギリシャ語が、「永遠の命」という意味での「命」を指す時に使われています。今日のコロサイ3章3節に、「あなたがたはすでに死んで、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているからです」とある、この「あなたがたの命」の「命」が「ゾーエィ」というギリシャ語です。使徒信条が、「わたしは永遠の命を信じます」と告白する時の「命」です。
聖書が教える「永遠の命」とは、単に生物学的に現在の生が来世まで続くという、「生命維持の延長」ではない。ある人の言葉を使うならば「根本的な刷新」。ですから私たちを人間として生かす命は一度、終結し、葬られる。塵に帰る。しかしそれでお終いではない。その断絶の彼方に、神さまがお与えくださる「新しい命/永遠の命」に甦るという希望の約束を聖書は私たちに語っている。このことが、使徒信条の最後の部分、「わたしは永遠の命を信じます」と告白することの意味なのです。
Ⅲ.キリストと共に神の内に隠されている命としての「永遠の命」
さて、今日は、コロサイの信徒へ手紙第3章の1節からの箇所を読ませていただいたのですが、一般にコロサイ書第3章は、使徒信条の「永遠のいのちを信じます」という言葉を学ぶ時、ほとんど必ず読むと言われている聖書箇所でもあります。
ここを見ますと私たちが授かる、「ゾーエィ」と言われる「永遠の命」は、今現在は、神の右に座しておられるキリストと共に神の内に隠されている。そしてそのキリストが再臨なさる時に、隠されていたキリストが再び姿を現すように、隠されていた「ゾーエィ」と言われる「永遠の命」が私たち一人一人に明らかに与えられるのだ、と説かれています。そのことを確認する上で1節から4節をもう一度、お読みしたいと思います。
「あなたがたはキリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右に着いておられます。上にあるものを思いなさい。地上のものに思いを寄せてはなりません。あなたがたはすでに死んで、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているからです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」
現在、このキリストは上におられる。天の父なる神さまの右に座しておられる。そのキリストのところにある私の真の命。そして、キリストが現れる時、すなわち再び来られる再臨の時に、私たちに与えられている「永遠の命」が私たちのものとなる。私たちが永遠の命に完全に与るというのです。
主イエスが復活なさった日、弟子たちはある家に集まっていました。しかし彼らは自分たちを迫害しようとするユダヤ教指導者たちを恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていました。ヨハネ福音書20章19節に描かれている場面です。
宗教改革者のカルヴァンは、その箇所を、「弟子たちが集まっていたことは彼らの信仰を表し、家の戸に鍵をかけていたことは、彼らの不信仰と恐れを表している」と解釈します。そして復活の主イエスは、信仰と不信仰、勇気と恐れが入り混じった複雑な心境の只中にいた弟子たちの真ん中に立たれ、「あなたがたに平和があるように」と言われたと聖書は伝えるのです。
確かに、目に見える現実は怖れに満ち溢れていたことでしょう。しかし、そこにいた弟子たち、そして私たちには、復活なさった主イエスはもう一つの現実があること、いや真の現実があることを伝える。「あなたの目があなたに言うことを信じないでください。それらは、限界を示すだけなのです。あなたの信仰を通して世界を見てください」と神さまは、聖書を通して語りかけておられるのです。
Ⅳ.「永遠の命」を信じます
もう一度、「永遠の命」のテーマに戻りたいと思います。実は、主イエスご自身が永遠の命の正体を語った言葉があります。ヨハネ福音書17章の「大祭司の祈り」と呼ばれる祈りの中で主は、「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ること」だと語られました。
「知ること」、その御方との関係において生きること、私たち自身の人生に神さまとの関係という縦軸をいただく時、その縦軸との関係で、自分を見、他者を見、この世界を見ていく目が開かれていきます。神さまとの関係で自分を知り、他者を知り、この世界を知る。もっと言えば、神さまに愛されている自分に気づかされる。神さまに受け入れられている他者を発見する。そして神さまの被造物としての、この世界へのかかわりも私たちの中で変化が起こって来る。それが永遠の命に与った者が経験する幸せであり、恵みです。
マックス・ルケードの『たいせつなきみ』という絵本をご存じでしょうか。彫刻家エリにつくられた木の人形たちが、互いに金の星シールや、「だめ」を表す灰色のシールを貼り合う中、灰色のシールをたくさんつけられた、「パンチネロ」という名の人形が、そんな暮らしが嫌になり、生みの親、彫刻家のエリに会いに行く話なのです。その時のエリとパンチネロの会話が癒されます。会話はエリの言葉から始まります。
「私は お前のことを とても大切だと 思っている」
「僕が 大切? どうして? だって 僕 歩くの遅いし、飛び跳ねたり出来ないよ。絵具だって剥げちゃってる。こんな僕のことが、どうして大切なの?」
考えてみれば私たちも平気で造り主なる神の御前で自己卑下する。パンチネロと同じです。そんな彼に対しエリは、「それはね お前が 私のものだからさ。だから 大切なんだよ」と答えるのです。二人の対話は、実は、私たちと神さまとのやり取りなのではないでしょうか。
私は神によって造られた。聖書はそう教えています。でもこのことを本当に信じているだろうか。もしそうなら神の作品であるはずの自分を自分勝手に評価することなどできません。社会や他人に「私が誰なのか」を決めさせる必要などない。この絵本を読むと、この後、パンチネロがエリの言葉を信じるようになった瞬間、体から灰色のシールがパラパラ剥がれ落ちるのです。
「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ること」だと言われます。これは何と幸いなことではないでしょうか。また様々な困難の中にあって、最後まで支えてくれる恵みではないでしょうか。
永遠の命、キリストの内に隠されている真の命、まことの私は、実は、造り主である神さまと、そのお方が遣わしてくださった主イエス・キリストを知ることにより、その御方に造られ、愛され、守られ、生かされている。そしていつか、キリストの内にある、私の命に甦る恵みが与えられる。今まさに、このお方との交わりの中で日々生かされている。「私は永遠の命を信じます」と心から告白し、告白したように生きる者でありたいと願います。
お祈りします。