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主日共同の礼拝説教

神の恵みへの感謝の応答 ― 十戒①

松本雅弘牧師
出エジプト記20章1-17節
ローマの信徒への手紙12章1-2節
2021年9月5日

Ⅰ.三文書の中の十戒

歴史の教会は、「使徒信条」と共に、「十戒」、そして「主の祈り」の三つの文章を大切にしてきました。何を信じ、どのように生き、何を祈るのかを示す、この3つの文書を私たちキリスト教会は、礼拝において唱えることを大切にしてきました。
ところが、十戒は、なかなか私たちの信仰生活に定着しない。現に十戒を重んじる教派の流れにある私たち高座教会においても、長い歴史において礼拝式に十戒が取り入れられた時期はないように思うのです。
では、何故、そうなのか。やはりその大きな理由として考えられることは、十戒という呼び名から受ける印象にあるのではないでしょうか。

Ⅱ.十戒の区分

ところで、ほとんどのプロテスタント諸教会は、出エジプト記20章3節の「あなたは、私をおいてほかに神々があってはならない」のみを第一戒とし、続く4節から6節が第二戒、7節が第三戒、8節から11節が第四戒、そして12節が第五戒、13節が第六戒、14節が第七戒、15節が第八戒、16節が第九戒、そして17節が第十戒と考えます。
これに対しカトリック教会とプロテスタント教会の中でもルター派教会は、第一戒を3節から6節までと考えます。当然、番号が一つずつずれ、最後第九戒で終わってしまいますので、17節を二つの戒めに分けて考えるようです。
ただ今回は、プロテスタント教会、カンバーランド長老教会もその一つの肢ですが、3節のみを第一の戒めとする立場で一つひとつを見ていきたいと思っています。

Ⅲ.十戒が与えられた背景

ところで、礼拝で十戒を唱える時、いきなり第一の戒めに入る前に、その直前にある出エジプト記20章2節の言葉、「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。」と唱え、その後続けて十戒の一つひとつの戒めを唱えることになっています。実はこのことこそ、礼拝の中で十戒を唱えるにあたり、キリスト教会が本当に大切にしてきたことなのです。それはこの2節の御言葉が、十戒がどのような戒めなのかの性格付けを決定する役割を果たしているからなのです。
ご存じのとおり、聖書は神の啓示の書です。ここで神さまは、「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」と、自己紹介なさっている。「私は主」の「主」とは固有名詞、神さまの実のお名前です。その「ヤハウェ」というお名前をお持ちのお方が、「あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。」と自己紹介なさっているのです。そのことをまず明らかにした上で、言葉にはありませんが、「それゆえこのように歩みなさい」と十の戒めをお与えになった。それが十戒なのです。
ですから、これから学んでいく十戒は何かと言えば、今日の20章2節の御言葉、「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。」この主なる神さまによる宣言に言い表されたように、十戒という律法が与えられるのに先立ち、「出エジプト」という、イスラエルの民の救済、神によってもたらされた恵み深い救いの御業があった。それをしてくださったのが、他の誰でもない、主なる神さま。しかも「あなたの神」と自己紹介されるように、「私とあなた」という人格的な関係の相手として、難しい言葉を使うならば、「恵みの契約関係」のもう片方の当事者として、イスラエルの民を救い出し選んでくださった。聖書はこの関係を結婚にもたとえていますが、そうした意味を込めて、「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」とご自身のことを宣言なさっているのです。
ここで主なる神さまは、一つひとつの戒めの言葉を語ろうとする前に、「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。」と宣言される。「あなたがたが、これから語る十戒を守ったから、その報いとしてエジプトから贖い出したのではありません。」そもそもあの時にはまだ十戒も授けられてなかったからです。神さまは、そのようにおっしゃりたかったのではないかと思うほどです。
ここで主は、「奴隷の家」という言葉を使っています。「あなたがたイスラエルは、エジプトで奴隷として、どれだけ惨めな立場に置かれていた者たちだったのか。」
ご存じのように「奴隷の家」とは、イスラエルの人々にとって屈辱と辛さに満ちた涙の場所だったことでしょう。それは思い出すだけでも無残な経験だったと思います。そこから一方的な恵みによって、私はあなたがたを救い出したのです。しかも神である私が、他でもない「あなたの神」となった!「私とあなた」という人格的なかかわりを持つ、「業の契約」ではない、「恵みの契約」関係の当事者としてあなたを選んだのです、と宣言されるのです。
このように考えて来ますと、十戒に出てくる一つひとつの戒めとは、これを守らなかったら大変な目に遭ってしまうと言った、恐怖心に訴えてイスラエルの民を動かそうとするための道具ではないのです。いや、そもそもこの戒めを守ったから、彼らが神の民イスラエルになったのではありません。そうではなく、過ぎ越しの小羊の犠牲によって一方的な憐れみによってエジプトの隷属から救出された。あり得ない出来事でしょう。ですから、本当にありがたい、尊い救いを実現して下った。「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」という宣言は、そういう意味なのです。
その主なる神さまによって贖い出された奴隷の民、奴隷集団が、聖なる神さまの聖なる民、イスラエルとされた。ですから今度、彼らイスラエルは、その聖なる神の民にふさわしい装いをもって生きる。神に愛された者としてふさわしい生き方がある。
私たちに当てはめるならば、「キリストという礼服」を着せていただき、新しくされ、神のものとされた私たちに、神さまが前もって備えておられる、ふさわしい生き方がある。それが、この十戒に出てくる一つ一つの生き方。一言で言うならば、「神を愛し、自分を愛するように隣人を愛する」という生き方です。そのことを禁止命令の表現をもって示されたものが十戒なのです。

Ⅳ.神の恵みへの感謝の応答としての生き方を示す「十戒」

シナイ山でモーセを通して十戒が与えられたおよそ40年後、ヨルダン川を渡って約束の地に向かう直前で、モーセが、再びイスラエルの民に向かって説教を語ります。それが申命記です。その中で再び十戒が語られていきます。
そうした申命記を見ますと、出エジプトという救いの恵みの出来事を経験したイスラエルの民に対して、その恵みを忘れないように、いつも思い起こすように、その恵みに留まり続けるようにと、モーセは繰り返し説いているのがとても印象的なのです。中でも24章19―22節にある、落穂拾いにかかわる教えです。ぶどうの実を摘み取って、もう一回歩き直して、残っている房を全部集めるとか、麦の穂を刈り取った後に、まだ残っている穂があるならば、全部それを拾い集めてしまうのではなく、むしろ敢えて残しなさい。何故なら、収穫する当てもなく、ここに生きているやもめたちや身寄りのない子どもたち、外国から来た寄留者たちのためのものだからです。
そのことをモーセは、「あなたはエジプトで奴隷であったが、あなたの神、主が、あなたをそこから贖い出されたことを思い起こしなさい。それゆえ、私はあなたにこのことを行うように命じるのである。」(申命記24章18節)と語るのです。
今日の20章2節も、そのことなのです。神さまの恵みを思い起こすこと、恵みを数えること。その恵みを思い巡らす中で、聖霊の働きにより、既に神の子、神の民とされた私たちが、神の子、神の民にふさわしい生き方を真剣に求める者へと変えられていく。つくり変えられ、成長させられていくのだ、というのです。
私たちが忘れてはならないのは、エジプトの隷属からの解放という、あの出エジプトの出来事の背景には、何千、何万もの小羊の犠牲があり、私たちにとっての出エジプト、罪の隷属からの解放、救いのために、世の罪を取り除く神の小羊、主キリストの十字架での贖いの死があったのです。
聖書は語ります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」御子の命と引き換えにしても惜しくない存在として私たちを愛してくださった。そのような者として生かされている。この恵みを思い起こしつつ生きる時、私たちの心は次第に感謝と喜びとに溢れていく。そして自らの意志で、神を愛し、自分を愛するように隣人を愛する道を求める者へと導かれていく。これから共に学んでいく十戒は、そうした私たちに与えられた、神の恵みへの感謝の応答としての生き方なのです。
お祈りします。