松本雅弘牧師
出エジプト記20章3節
マタイによる福音書22章35―40節
2021年9月12日
Ⅰ.十戒の二区分
ある日、ひとりの律法学者が主イエスのところにやって来て、「先生、律法の中で、どの戒めが最も重要でしょうか」と問うのに対して、「『心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の戒めである。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つの戒めに、律法全体と預言者とが、かかっているのだ。」とお答えになりました。まさに十戒は、主イエスが語られた二つのこと、「神である主を愛すること」、そして「隣人を自分のように愛すること」、その二つを示していることが分かります。
このようにして、神さまとの関係という縦軸と、人間同士の横とのつながりという横軸とがしっかりと結び合うところに、私たち神の民とされた者が立つべき位置があることを、明確に示すのが、この十戒であると言えます。
Ⅱ.第一戒:「唯一神信仰」ではなく「拝一神信仰」を求める戒め
さて、主は第一の戒めでこう語られます。「あなたには、私をおいてほかに神々があってはならない。」これは2節の御言葉、「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」という宣言をもって、ご自身をあらわされた神さまが、イスラエルの民に向かって語られた最初の戒めの言葉です。
H.W.マロウ先生は『恵みの契約』で、出エジプトという奴隷状態からの解放の目的はイスラエルの民が神を礼拝する民として生きるということにあったと聖書から解き明かしています。それを踏まえて、第一戒を見ますと、この戒めは、「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」とご自身をあらわされた、ヤハウェなる神さまのみを礼拝するようにという「拝一神信仰」と取るべきである、と主張されるのが、以前YMCA主催の平和講演会でお話しくださった関田寛雄先生です。
確かに第一戒を唯一神信仰を求める戒めと捉えた場合、当然の帰結として、他宗教に対して排他的/非寛容になり、それがこの第一戒の中心メッセージなのだ、という理解になりかねない。しかし聖書に聴くならば、主なる神さまはそれとは正反対の御心を持ったお方であることが分かります。
前回、説教で触れた申命記を見ますと、落穂拾いにかかわる教え、穀物の収穫をする時に、自分の畑で実ったものを全部収穫してしまうようなことはするな、と教えています。収穫する当てもなく、ここに生きているやもめたちや身寄りのない子どもたち、外国から来た寄留者たちのために、自分たちが収穫した後、「さあ、どうぞいらっしゃい、あなたがたの取り分はここにありますよ」と、言ってあげなさい、と教えるのです。
聖書には、「名前は命」という考え方があり、名前はその名を持つ人の本質を表すと言われます。「ヤハウェ」というお名前を持つお方は、その名前が、「すべてを存在させ、すべての生きものに生きよと命じる者」という意味だとしたら正に申命記の教えに現わされた御心は、そのお名前と一致するわけです。名前と正体が一つになっているのです。
コロナ禍にあって、生活に行き詰まりを覚えておられる方が大勢います。生きるのが辛い、死にたいという声も届いて来ます。しかし聖書には、私たちの世界に「生きよ」と命じる声が実はいまも響いている。決してやむことなく聞こえて来る。
やもめたち、身寄りのない子どもたち、外国から来た寄留者たち、そこには他民族、他宗教の人たちも当然いたことでしょう。そうした人々をも含め、生きることを願い、「生きよ」とお命じになる。ですから、ある人の言葉を使うならば、ヤハウェなる聖書の神さまの御心とは、「生命を肯定する/共存・共生を願う御心」なのだ、というのです。確かに、旧約聖書の中などには、そう読めない個所もあります。しかし、その聖句の文脈、その行間を見ていくと、必ずと言ってよいほど、そこには神さまの痛みや悲しみ、嘆きがにじみ出てくると言われます。
こう考えますと、第一の戒め、「あなたには、私をおいてほかに神々があってはならない。」という戒めは、神は唯一である、神はお一人だということを中心に主張する「唯一神信仰」を求める戒めというよりも、むしろ「私とあなた」という関係へと招かれた神を礼拝するようにと求める、「拝一神信仰」を意味する戒めであると結論付けられると思うのです。そのように見て来ますと、5節の主なる神さまがご自身を「妬む神」だとおっしゃるのもうなずけるわけです。それは、主なる神さまが、イスラエルの民と、「私とあなた」という、いわば結婚関係を結ばれたからです。だとするならば、花嫁であるイスラエルの民を情熱的に愛するという、そうした主なる神とイスラエルの民という関係の中で、主なる神さまは「妬む神」であられる。こうしたことからも第一戒は、「拝一神信仰」を説いておられると考えて間違いない。
ご存じのように、この時、イスラエルの民が脱出したエジプトは多神教の地でした。そして今後遭遇するであろう、バビロニア、ギリシャもいずれも多神教の宗教文化を生み出していきます。それも極めて発達した宗教文化です。そうした中、主なる神さまは、エジプトや諸地域の神々に目を向けることなく、「私が主、私があなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者、私をおいてほかに神々があってはならない。私との関係に生きるように」。ここで、そう語っておられるのです。
宗教改革者のルターは、3節の、「私をおいてほかに」を「私と並べて」と訳しているそうです。神さまは、ご自身以外のものと「並べて」礼拝することを人間にゆるされませんでした。ホセア書1章2節などを見ますと、それは「淫行」を意味することだと、預言者は糾弾するほどです。父祖アブラハムへの契約を思い起こし、奴隷であったイスラエルの叫びを聞き、そしてエジプトから救出された、その恵みに踏み留まって生きるイスラエルにとって、救い主であるヤハウェに「並べて」拝する「神」など有りうるはずはないでしょう!この第一戒は、まさに、そうした神さまの愛のメッセージなのです。
Ⅲ.第一戒の目的―「ハイデルベルク信仰問答」から
「ハイデルベルク信仰問答」は、その第94の問答が、第一戒についての問答となっていて、「第一の戒めで、主は何を求めておられるのですか」という問いに続き、その「答え」において、「わたしは自分の魂の救いと祝福を失うことがないため」なのだ、と語っています。つまり、すでに救いと祝福がすでにもう私のものになっているのです。その前提で語っている。だから、すでにいただいている救いと祝福を失うことがないために、私たちは、「ただこの神だけを信頼し、できるかぎりの謙遜と忍耐をもって、この神だけに、あらゆる良きものを期待し、心底から神を愛し、畏れ、敬うこと」等々を求めていくのだ、と語るのです。
先週、何度もお話しましたが、律法がいつ与えられるかの順序が大事です。戒めを守ったので救われたのではありません。戒めを守った報いとして、「私とあなた」の関係に入ったのではなく、一方的な恵みによって、神さまが選んでくださった。主イエスも、「あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ」(ヨハネ15:16)と語られました。そうしていただいたのが、この時のイスラエルの民であり、私たちなのです。そして、救われた私たちが、その恵みに応答する生き方、すでにいただいている救いと祝福を失わないために、この第一戒の「あなたには、私をおいてほかに神々があってはならない。」という律法が与えられているのです。
Ⅳ.主なる神の決意の宣言としての第一戒
先にご紹介した関田寛雄先生は、カール・バルトの次の言葉、「神はイエス・キリストにおいて永遠に人間と共にあることを決意された」。この言葉を引用し、「これ(バルトのこの言葉)が、第一戒の意味です」と語っておられました。
「神、我らと共にいる」とインマヌエルの神として、私たちと一緒に生きることを決意された。だから、「生きよ」とお命じになられる。それも永遠に私たちと共にあることを決意された。「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなたがたは何もできないからである。」と主イエスが語られているように、私たちは、その方から絶対に離れてはならない。「あなたには、私をおいてほかに神々があってはならない。」聖書の神さまは、人間との愛の関係性の中で存在しようと強く決意なさった。それは、私たちが救いと祝福に留まるためなのです。
お祈りします。